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源実朝殺人事件『承久軍物語』

※原文は平仮名が多くて分かり難いので、漢字を多用しました。

 右京権大夫義時は、御剣の役を勤め給ひしが、宮の門に入給ふ折ふし、俄かに心神脳乱し、前後暗くなりしかば、文章博士仲章を呼びて御剣を譲り、退去して己の邸に帰り給ふ。
 ここに不思議あり。将軍、御車より降り給ふとて、雄剣(細太刀)の柄の御車の手形に入りたるけるを知らせ給はで、打ち折らせ給ふこそ、あさましけれ、然るに、仲章、「苦しうも候ふまじ」とて、木を結ひ添へてぞ参らせける。昔、臨江王といひし人、遥かの道に赴くとて、車の轅(ながへ)折れたりけるを、慎まずして行きけるが、再び返る事を得ずして、他国の土と朽ちにけり。「前車の覆るは後車の戒め」とこそ申すに、諫め申さざる文章博士、不覚なる次第也。これのみか、御車の前を黒き犬、横様に通る事、霊鳩、頻りに鳴く事、かたがたもて、いまいましき告げ有りけるを、驚かぬこそはかなけれ。
 さるほどに、石階(いしばし)に近づかせ給ふ時、いづくよりともなく、美僧三人、現れ来て、将軍を犯し奉る。初め一太刀は、笏にて合はせ給へども、次の太刀に御首は落され給ひけり。文章博士仲章、伯耆前司師範も斬られけり。前後に候ひける隨兵共、「此は如何なる事ぞや」とて、慌て騒ぎて、宮中に馳せ込むといへども、かたきは誰とも知らず。頃は正月廿七日、戌の時の事なれば、暗さは暗し。上を下に返して、どよむ声、おびただし。かかりける所に、上宮の砌にて、「阿闍梨公曉(あざりこうけう)、父のかたきを討つ」と名乗られつるといふ事ありて、軍勢共、即ち、かの禅師のおはします雪下の本坊を襲ふ所に、「ここには、おはしまさず」とて、兵共、帰りけり。
 さても別当・公曉は、「日頃の宿意を遂ぐる」と悦びて、すなはち彼の御首を手に持ち、後見(うしろみ)の備中の阿闍梨が雪の下の北谷の家に向はれけるが、物など参らせける間も、御首をば放し給はず。然るに、別当の門弟に、駒若丸と申すは、三浦の平六左衞門義村が二男也。その好(よしみ)を、おぼしけるかや、源太兵衞と申す者を御使ひにて、義村が方へ仰せ遣はされけるは、「右府将軍、既に薨じ給ひぬ。今、関東の長たるべき者は我なり。早く計略を巡らすべし」と示し合はされければ、義村、大きに呆れ、日頃、将軍の御恩、厚く被り奉れば、今更いたはしく思ひ、右京大夫に參りて申し合はせければ、すみやかに別当阿闍梨を誅し奉るべきに定りけり。即ち、長尾の新六、雜賀の次郎以下(いげ)五人の兵に仰せて、阿闍梨の在所へ遣はさる。別当は、使ひの遲き事を待ちかね給ひて、「義村が自宅に至らん」とおぼしめして山中にかかり給ふが、その夜しも大雪降りて、道に迷うておはせし所に、長尾の六郎往き逢ひて、誅し奉らんとす。別当は、早業、力業、人に優れ給へば、左右なく討たれ給はず、「ここを先途」と戦ひ給ふ。然れ共、多勢に無勢、敵(かな)はねば、遂に討ち取られ給ひけり。
 この別当と申すは、右大将殿の御孫、金吾将軍の二男なり。御母は、賀茂の六郎重長の女(むすめ)にてぞおはしける。みなし兒にておはせしを、祖母の二位の禅尼、不憫に思し召し、はぐくみ、育て、十七歳と申す十月十一日に、鶴岡八幡宮の別当職に附せらる。今年、三とせになりけるが、御所の中に変化(へんげ)の物ありて、女の姿と現れ、上を窺う。いかにもしてゆくゑを見んと求むれども、足、早く、身、軽くして、幻の如くになり給ふ故、御在所を見たる人も無し。今、思ひ合はすれば、別当阿闍梨、将軍を討ち奉らんために、「三とせが間、窺い給ふ」と言へども、終に本望を遂げ給はず。この拝賀の時節を、「天の与へ」と喜びて思し立つ所に、「右京の大夫は、御剣の役に定まりける」由、聞こし召しければ、まづ、一の太刀に討ち給ふ所に、引かへ、仲章、御剣の役を勤めし故にこそ、あへなく討たれけるとかや。
 明くれば、廿八日、将軍家の御葬礼を営まんとする所に、御首のありか知れざりければ、「いかがせん」と惑ふ所に、昨日、御所の御出の時、公氏、御鬢(びん)に參りければ、鬢の髮を一筋拔かせ給ひて、「御形見」とて給はりつつ、
 いでいなば主なき宿となりぬとも 軒端の梅よわれを忘るな
と口ずさみ給ふこそ、忌はしけれ。その御髪を御櫛に用ひて、御棺に入れ奉り、勝長寿院の傍に葬り奉る。この日、御台所も御出家あり。御戒師は行勇(きやうゆう)僧都なり。また長井左衛門大夫親広、右馬之助時広、城之介景盛以下、数百人の大名ども、悉く出家したり。あはれなるかな。

※『承久軍物語』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789/46

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