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「源実朝殺人事件」3つの謎


 「源実朝殺人事件」とは、叔父・源実朝を、甥・公暁が討った殺人事件であるが、謎が多い。

  ①源頼朝┬②源頼家─公暁(出家させられ④になれず)
      └③源実朝
         ├無嫡(④は、坊門信子の姉と後鳥羽上皇の子に決定)
        坊門信子

 数多くの謎の中で、Webライターがよく取り上げるのは、
・黒幕がいたか、いないか(いたのであれば、それは誰か)
であるが、私が興味あるのは、
・公暁の服装はどんなだったか
・なぜ「親の敵(かたき)はかく討つぞ」と叫んだか
・源実朝の胴塚と首塚はどこにあるか(長文なので別稿)
である。

1.公暁の服装

 当日の公暁の姿は、「僧兵装束」で、大銀杏の陰から源実朝の後部へ飛び出し、裾(きょ)を踏んで倒すと、一撃で殺し、首を切ると、首を持って石段を駆け上り、首を掲げて、「親の仇(かたき)はかく討つぞ」と叫ぶと、源実朝の首を持って走り去ったという。 

「僧兵装束」の足駄(下駄)では走れないのでは? そもそも当日は雪が降り積もっていたので、雪駄(わらじ)を履いていたのではないかと思われる。また、長刀(なぎなた)ではなく、太刀(たち)を使ったとされる。(公暁の姿が「僧兵装束」になったのは、江戸時代とされる。)

『鎌倉殿の13人』の源実朝と公暁

『鎌倉殿の13人』では、別当の正装ではなく、旅姿であり、雪が降っていたので、蓑を着ていたとした。

『歴史探偵』』の源実朝と公暁

一方、『歴史探偵』の再現ドラマ(記事トップの動画)の衣装は、『愚管抄』に基づいたものであった。『愚管抄』には、

「法師ノケウサウトキント云物シタル」(法師の旅姿で、兜巾(ときん。修験道の山伏が被る黒の帽子)という物を被った者)

とある。公暁は千日参篭の最中で、髪を切っていなかったというから、ヘアバンドの代わりに兜巾を使ったのであろうか?

※「源実朝殺人事件『愚管抄』」
https://note.com/sz2020/n/n3043deedcbb0

公暁は黒衣ではなく、白衣を着ていた。

『吾妻鏡』には「素絹衣(すぎぬころも)に腹巻を着る」(白い絹の着物に簡易な鎧である腹巻を着けていた)、『増鏡』には「女のまねをして、白きうす衣ひきをり」とある。白い着物を着て、女性が顔を隠すように、白い絹衣を掲げていたのであろう。(「僧兵装束」の白い袈裟頭巾をしていたのではないと思う。)当日は雪が降り積もっていたので、白い服は保護色になり、身を隠すには都合が良かったのであろう。

※「源実朝殺人事件『吾妻鏡』」
https://note.com/sz2020/n/n4c71f7785ff3

■公暁が着ていた着物は黒か、白か?(Reco説)

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