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Recoの君語り ー『光る君へ』(第21回)「旅立ち」ー

 主人公は紫式部。 平安時代に、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書き上げた女性。彼女は、藤原道長への思い、そして、秘めた情熱とたぐいまれな想像力で、光源氏=光る君のストーリーを紡いでゆく。
 変わりゆく世を、変わらぬ愛を胸に懸命に生きた女性の物語。(NHK)


第一部「青春篇」
寛和  2年(986年)6月23日 「寛和の変」(花山天皇の退位と出家)
               一条天皇(7歳)即位
寛和  2年(986年)      「庚申待ちの夜」
第二部「関白争奪篇」
永祚  2年(990年)  7月  2日 藤原兼家、死去。
永祚  2年(990年) 10月 5日 藤原定子、中宮に。
正暦  2年(991年)  2月12日 円融法皇、崩御。享年33。
正暦  2年(991年)  9月16日 藤原詮子、出家。「東三条院」と称す。
正暦  3年(992年)  1月   源倫子、藤原道長の長男・藤原頼通を出産。
正暦  4年(993年)  7月29日 源倫子の父・源雅信、死去。享年74。
長徳元年(995年)  4月10日 藤原道隆、病没。享年43。
長徳元年(995年)  5月  8日 「七日関白」藤原道兼、病没。享年35。
長徳元年(995年)  5月11日 権大納言・藤原道長に内覧宣旨が下る。
長徳元年(995年)  6月19日 藤原道長、右大臣に転任し藤原氏長者宣下。
長徳元年(995年)  8月下旬 朱仁聡、林庭幹ら70余人が若狭国に来航。
長徳  2年(996年) 1月16日 藤原隆家、花山法皇に矢を射る。
長徳  2年(996年) 1月28日 藤原為時、越前守に就任。
長徳  2年(996年) 5月  1日 藤原隆家、捕らえられ出雲国へ左遷。
               中宮・藤原定子、落飾。
長徳  2年(996年) 5月15日 藤原伊周、播磨国へ左遷。母の同行不可。
長徳  2年(996年) 6月  9日 二条北宮、全焼。
長徳  2年(996年)夏    「月夜の逢瀬」
第三部「越前篇」
長徳  2年(996年)夏     藤原為時&紫式部、越前国へ。
長徳  3年(997年)      紫式部、京都へ戻る。
第四部「篇」
長徳  4年(998年)       麻疹の大流行。
長徳  4年(998年)?      紫式部,、藤原宣孝と結婚。
長徳  5年(999年)  1月13日  「長保」に改元。
長保元年(999年)       紫式部,、藤原賢子(大貳三位)を産む。
長保  2年(1000年)12月16日 藤原定子、死没。享年25。
長保  3年(1001年)  4月25日 藤原宣孝、病没。享年不明。
第五部「篇」
長保  3年(1001年) ? 『源氏物語』(全54帖)執筆開始
長保  6年(1004年)  7月20日 「寛弘」に改元。
寛弘  2年(1005年)  9月26日 安倍晴明、死没。享年85。
寛弘  5年(1008年)  2月  8日 花山法皇、崩御。享年41。
寛弘  5年(1008年)  『源氏物語』、「源氏物語絵巻」として絵画化
寛弘  7年(1010年)  1月28日 藤原伊周、死没。享年37。
寛弘  8年(1011年)  6月22日 一条天皇、崩御。享年32。
寛弘  9年(1013年)12月25日 「長和」に改元。
長和  5年(1016年)  4月29日 藤原為時、出家。
長和  6年(1017年)  4月23日 「寛仁」に改元。
寛仁  5年(1019年)  2月  2日 辛亥革命により「治安」に改元。
治安  4年(1024年)  7月13日 「万寿」に改元。
万寿  2年(1025年)?    清少納言、死没。享年61?
万寿  4年(1027年)12月  4日 藤原道長、病没。享年62。
万寿  5年(1028年)  7月25日 「長元」に改元。
長元  2年(1029年)? 藤原為時、死没。享年81?

このドラマ、最終回が見えない。
紫式部は、藤原道長よりも早く亡くなったと思われる(死亡年説は、1014年説~1031年説まで様々)ので、藤原道長が看取るシーンで終わる? それとも紫式部が宋へ渡る出港シーンで終わる?
<紫式部の墓> ※和泉式部の墓よりは数が少ない。
・京都府京都市北区紫野西御所田町
・兵庫県神戸市
・栃木県下野市紫
・千葉県南房総市
とにかく、元カレ・藤原道長と父・藤原為時は長生きである。ドラマでは紫式部1031年死亡説が採用される?


【今回のあらすじ】

 追い詰められた藤原定子が自ら髪をおろしたことは内裏に広まり、一条天皇は大きなショックを受ける。一方、藤原伊周は、任地の太宰府に赴くことを拒み、逃亡を続けていた。検非違使庁の最高責任者、別当を務める藤原実資らが捜索を続けたところ、僧形で出頭した。
 その頃、藤原定子が髪をおろす姿を目の当たりにした清少納言は、心から敬愛する藤原定子を守ることができず落胆していた。そんな清少納言を励ましたい紫式部は、「藤原定子のために何かを書いてみてはどうか」と助言する。『枕草子』の誕生である。
 そして、紫式部自身も、越前守に任ぜられた父・藤原為時と共に越前国へと旅立つ日が近づいていた。旅立ちの前に、紫式部は、藤原道長に文を送り、二人は会って愛を確かめ合う(「月夜の逢瀬」)。


1.『枕草子』

(1)執筆開始時期と執筆動機

 『枕草子』の執筆開始時期は、中宮定子の出家の時、『源氏物語』の執筆開始時期は、夫・藤原宣孝が亡くなった時と考えられ、執筆動機は、それぞれ、「中宮定子を慰めるため」「夫の死の悲しさを紛らわせるため」となろうか。

(2)書名の由来

 「枕草子」という書名全体についていえば、この作品がこの書名で呼ばれるようになった当時において「枕草子」は一般名詞であった。『枕草子』の執筆動機等については巻末の跋文によって推量するほかなく、それによれば執筆の動機および命名の由来は、内大臣伊周が妹中宮定子と一条天皇に当時まだ高価だった料紙を献上したとき、「帝の方は『史記』を書写されたが、こちらは何を書こうか」という定子の下問を受けた清少納言が、「枕にこそは侍らめ」(三巻本系による、なお能因本欠本は「枕にこそはし侍らめ」、能因本完本は「これ給いて枕にし侍らばや」、堺本と前田本には該当記事なし)と即答し、「ではおまえに与えよう」とそのまま紙を下賜されたと記されている。「枕草子」の名もそこから来るというのが通説であるが、肝心の枕とは何を意味するのかについては、古来より研究者の間で論争が続き、いまだに解決を見ない。
 田中重太郎は日本古典全書『枕冊子』の解説で、枕の意味について8種類の説を紹介したが、そのうちの代表的な説を以下に述べる。
備忘録説:備忘録として枕元にも置くべき草子という意味
題詞説:歌枕・名辞を羅列した章段が多いため
秘蔵本説:枕のごとく人に見すまじき秘蔵の草子
寝具説:「しき(史記→敷布団)たへの枕」という詞を踏まえた洒落
ほかにも漢詩文に出典を求めた池田亀鑑や、「言の葉の枕」を書く草子であるとした折口信夫など異説が多い。また、『栄花物語』に美しいかさね色を形容するのに普通名詞としての「枕草子」が用いられたことも指摘されている。
 近年(2014年)歴史学の五味文彦は、当時、唐風・唐様に対し和風・和様のものが意識されて多くの作品が生まれていることから、これは「史記=しき」を「四季」と連想し、定子に対して清少納言が「四季を枕に書きましょうか」というつもりで答えたのであり、「唐の『史記』が書写されたことを踏まえ、その『しき』にあやかって四季を枕にした和の作品を書くことを宮に提案したもの」とする新説を唱えている。すなわち『枕草子』が「春はあけぼの」から始まるのは、まず最初の話題として春夏秋冬の四季を取り上げたということである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 内大臣・藤原伊周が、帝と中宮・藤原定子に、貴重な紙の束を献上した。藤原定子は、清少納言に「帝はこの紙に『史記』を書き写していらっしゃる。私は何を書いたらいい?」と質問すると、清少納言は「枕にしましょう」と即答した。すると、藤原定子は、「(それは「宝の持ち腐れ」であるので、)あなたにあげる。何か書けばよい」と紙の束を清少納言に渡した。

───たった一人の悲しき中宮のために、『枕草子』は書き始められた。

宮の御前に、内の大臣の奉りたまへりけるを、「これに何を書かまし。上の御前には史記といふ文をなむ、書かせたまへる」などのたまはせしを、「枕にこそは侍らめ」と申ししかば、「さは得てよ」とて給はせたりしを(後略)

『枕草子』

 『枕草子』にしても、『源氏物語』にしても、作者が名付けたのではなく、後世の人が名付けたのであって、当時の呼び名は不明です。

 書名「枕草子」については、清少納言本人が書いた「あとがき」にある、藤原定子の質問に対し、清少納言が「枕にしましょう」(枕にこそは侍らめ/これ給いて枕にし侍らばや)と即答したことによると考えて間違いないようですが、この「枕」の意味には諸説あります。

●藤原定子「清少納言よ、香炉峰の雪いかならむ」
  ↓
 清少納言は御簾を高く上げた。
  ↓
 藤原定子「(笑)」

藤原定子の笑いは、白居易の漢詩「香炉峰下新卜山居」の「遺愛寺鐘欹枕聴/香炉峰雪撥簾看(遺愛寺の鐘は枕に欹(そばだ)ちて聴き/香炉峰の雪は簾を撥(かかげ)て看(み)る)」によるもの。

●藤原定子「清少納言よ、これに何を書かまし」
  ↓
  清少納言「枕にこそは侍らめ(枕として使えばいいです)」
  ↓
 藤原定子「さは得てよ(それはもったいないので、あげる)」

出典は、白居易の漢詩「祕省後廳」の「白頭老監枕書眠(白頭の老監、書を枕にして眠る)」。

(注)ドラマでは、「枕=枕詞」説と五味文彦氏の「史記(しき)→四季」説が採用された。
 枕=枕詞? 「枕」に掛かる枕詞に「しきたへの」があり、「しき」と聞いて「それは枕詞ですか?」とぼけたというのですが、私なら、枕=歌枕。『歌枕名寄』を書くよ。

桔梗(清少納言)「中宮様はご出家以来、生きる気力を失われてしまって、お食事もあまり召し上がらないのです。このままお体が弱ると、お腹のお子のお命も危ないと思い、気が気ではありません。中宮様をお元気にするにはどうしたらいいかしら。まひろさまによいお考えはない?」
まひろ(紫式部)「さぁ・・・」
桔梗(清少納言)「そうよね・・・」
まひろ(紫式部)「桔梗様、以前、中宮様から高価な紙を賜ったとお話して下さったでしょ?」
桔梗(清少納言)「ええ、伊周様が帝と中宮様に献上された紙ね」
まひろ(紫式部)「そう。それです」
桔梗(清少納言)「あぁ・・・帝がそれに司馬遷の『史記』を書き写されたところ、中宮様が『私は何を書いたらいいかしら』とお尋ねになったのです」
まひろ(紫式部)「あぁ・・・何とお答えになったのですか?」
桔梗(清少納言)「『枕詞を書かれたらいかがでしょう』と申し上げました」
まひろ(紫式部)「『史記(しき)』が敷(しき)物だから枕ですか?」
桔梗(清少納言)「よくお分かりだこと。そうしましたら、中宮様が大層、面白がられて、その紙を私に下さったのです」
まひろ(紫式部)「でしたら、その紙に中宮様のために、何かお書きになってみたらよいのでは?」
桔梗(清少納言)「えっ?」
まひろ(紫式部)「帝が司馬遷の『史記』だから、桔梗様は春夏秋冬の四季とか?」
桔梗(清少納言)「まひろ様・・・言葉遊びがお上手なのね」

 『枕草子』は、中宮定子と離れて実家に帰っていた時に書いたと想像されてはいるが、清少納言が『枕草子』を書き、中宮定子の枕元に置くという演出が素敵(「枕草子=枕元の書物」説)。

(3)「春はあけぼの」

春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく、山ぎは少し明りて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は、夜。月の頃はさらなり。闇もなほ。螢の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。

秋は、夕暮。夕日のさして、山の端(は)いと近うなりたるに、烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの列ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。

冬は、つとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。

 春は曙と言われても、見たことが無いです。「春眠暁を覚えず」(孟浩然『春暁』)と、寝てるます(笑)。曙を見るのは、徹夜明けと初日の出くらいです。

 紫だちたる雲──紫は高貴な人の色。朝日(一条天皇)の登場に際しての中宮定子の登場を示すという。

───曙は夜からの旅立ち

『枕草子』の内容は3つ。
①類聚的章段:同種の事柄を集めた章段。
②随想的章段::自然や人への思いを自由に書いたエッセー風の章段。
③日記的章段::藤原定子の後宮での出来事を回想風に記録した章段。

 『光る君へ』を見ていると、高校の古文の授業を思い出します。
「四季について『枕草子』風に書け(出来れば古語。現代語でも可)」
という授業では、
「春は桜(満開は3日間)、夏は花火(数秒)、秋は紅葉(見頃は1週間)、冬は雪(数か月)」
と、風物詩に時間の概念を加えた文を書いて提出した気がする。
 宿題は「類聚」(もの尽くし)で、
「近くて遠きもの。自宅の横の偏差値高い大学」
「遠くて近きもの。遠くの蕎麦屋」
と、ねづっちの「謎かけ」遊びのようなのを提出した記憶がある。
 私が古文の教師なら、生徒の作品集『高校生枕草子』を出版したい。長年教師をやっていれば、名作が集まると思う。

春夏秋冬を歌う

(4)形容詞「~し」満載の内容

2.藤原為時の越前守任官と紫式部


 藤原為時の越前守任官に伴い、紫式部も越前国へ行っている。

藤原為時の越前守任官に伴い、紫式部も越前国へ行った理由が分からない。
 ドラマ的には、
・直秀が言っていた「海のある遠くの国」が見たい。=了解!
・「道長の政治を見守る」と言ったくせに京都を離れる。=不可解!
 学者は「母親代わりに父親の世話をするため」としているが、世話は侍女がやればいいし、実際、紫式部は、父の国司の任期の4年間、越前国にいて世話したわけではなく、(父親の再婚のためか、自分の結婚のためか)約1年で京都に戻ってきている。

 また、ドラマでは、国府(福井県越前市)へ行く前に「松原客館」(福井県敦賀市)に寄ったとした。

■オウムの声「你好(ニーハオ)」

オウムの声に声優を起用してくるNHKの本気度よ。

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