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「島」地名

1.「島」の語義 -「伊良湖の島」と「伊豆島」-

(1)「島(㠀、嶋、嶌)」の定義


定義①水域に囲まれた陸地


●「島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、満潮時においても水面上にあるものをいう」(海洋法に関する国際連合条約(第121条)「島の制度」)。島国に住む人は、本土を島とみなさないが、国際的には、最小の大陸であるオーストラリア大陸より小さな陸地は島であり、日本(本州等)は島である。
●総務庁統計局『日本統計年鑑』「第1章国土・気象」「1-1 国土構成島数」「面積及び周囲」では、海上保安庁が2万5千分の1海図を基準として、周囲が0.1km以上のもので、何らかの形で本土とつながっている島について、それが橋、防波堤のような細い構造物でつながっている場合は島として扱い、それより幅が広くつながっていて本土と一体化しているようなものと埋立地は除外して、日本には6852島あるとする。

定義
②水の向こうに見える陸地や半島。

定義③人が住まう集落、村落。

 民俗学者の折口信夫や柳田國男は、「水域に囲まれた陸地」というのは漢字「島」の字義であり、大和言葉の「シマ」を、
・村を意味する接尾語(折口信夫『万葉人の生活』1922)
・特定の民家群、村落を意味する名詞(柳田國男『島の人生』1951)
だとする。
 「島嶼(とうしょ)」は、島と嶼(小島)で、「島(㠀、嶋、嶌)」の字義は「鳥の止まる海中の山」(『漢字語源辞典』)である。

★陸地地名としての「島」
・集落、村落。(折口信夫、柳田國男)
・川の曲がり目や川端の低地などの耕地。(浜松市の天竜川沿いの方言)
・盆地の小高い場所。
などなど。

■折口信夫『万葉人の生活』(『白鳥』(第4号)所収)
村を又、ふれ・しまとも、くに・あがたとも言うたのは、此時代である。みち・ひな(山本信哉氏などは、あがたをも、同類に考へてゐる)と言ふ語は、元はよそ国・他国位の積りが、遠隔の地方を斥す様になつたとも考へられる。あきつしま・しきしま・やまとしまは、水中の島から出た語尾でなく、却つて村の意味の分化したものと見るがよからう。三つながら、枕詞或は、直様日本の異名として感じられる様になつて来た。それは、大和朝廷の、時々の根拠地になつてゐた村名に過ぎないのである。大和の北と真中の平原にあつた村々を支配するまでに、づぬけて勢力を持つて来たのが、山辺郡大倭を土台にした村だつたのである。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46965_27477.html
■柳田國男『島の人生』
美濃の東南部の山村をあるいていた際に、島内安全といふ文字を彫刻した路傍の立石を見たことがある。島はあの辺りでは民居の集合、今の言葉でいふ部落又は大字のことらしい。丹波の由良川の流域でも、島の字の附く地名の多いことが、たしか丹波誌の中に注意してあった。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9542172

定義④一定の小区画。特にある仲間内の勢力範囲(なわばり)。

(2)伊良湖の島


『万葉集』に「伊勢國伊良虞嶋」「伊豆島」が出てくる。
https://note.com/sz2020/n/nbdb47a4893d1

■『万葉集』「明日香清御原宮天皇代 [天渟中原瀛真人天皇、謚曰天武天皇]」(巻1-22~27)
十市皇女参赴於伊勢神宮時見波多横山巌吹芡刀自作歌
河上乃 湯津盤村二 草武左受 常丹毛冀名 常處女煮手(巻1-22)
麻續王流於伊勢國伊良虞嶋之時人哀傷作歌
打麻乎 麻續王 白水郎有哉 射等籠荷四間乃 珠藻苅麻須(巻1-23)
麻續王聞之感傷和歌
空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食(巻1-24)
右案日本紀曰、天皇四年乙亥夏四月戊戌朔乙卯、三位麻續王有罪流于因幡。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋也。是云配于伊勢國伊良虞嶋者、若疑後人縁歌辞而誤記乎。
天皇御製歌
三吉野之 耳我嶺尓 時無曽 雪者落家留 間無曽 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 <念>乍叙来 其山道乎(巻1-25)
或本歌
三芳野之 耳我山尓 時自久曽 雪者落等言 無間曽 雨者落等言 其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎(巻1-26)
右句々相換因此重載焉
天皇幸于吉野宮時御製歌
淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見<与> 良人四来三(巻1-27)
紀曰、八年己卯五月庚辰朔甲申幸于吉野宮。

関連部分の書き下し文

麻続王、伊勢国の伊良虞の島に流さる時に、人の哀傷(あはれ)びて作る歌
打麻(うちそ)を麻続王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります
麻続王、之を聞き、感傷(かなし)びて和(こた)ふる歌
うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食(は)む
右、『日本紀』を案(かむが)ふるに曰く、「天皇四年乙亥夏四月、戊戌朔乙卯、三位・麻続王、罪有りて因幡に流す。一子(あるみこ)は伊豆の島に流し、一子は血鹿(ちか)の島に流す也」と。是(ここ)に伊勢国の伊良虞の島に配(なが)すと云ふは、若(けだ)し、後の人、歌辞に縁(より)て誤り記(しる)せるか。

【大意】

麻続王が「伊勢国の伊良湖の島」に配流された時、ある人が(麻続王が海藻(伊勢国ならワカメ、因幡国ならホンダワラ、常陸国なら製塩に使う藻?)を採っている姿を見て)哀れんで、
「麻続王は高貴な人だと思っていたが、漁民なのか? 海藻を刈っている」
と詠んだのを聞いた麻続王は、悲しんで、
「人の短い「生」に執着し、たとえ波に濡れても、伊良湖の島の海藻を刈って食べて生きている」
と返した。
[左注]「麻続王、流於伊勢国伊良虞島の時、人哀傷作歌」として伝わっているが、麻続王の配流先については、『日本書紀』(巻29)「天武天皇4年(675年)4月18日の条」に「辛卯。三位麻續王有罪、流于因播。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋」(18日。三位・麻績王に罪が有り、因幡国に(鳥取県東部)配流した。麻績王の子の1人を伊豆島(伊豆諸島の伊豆大島)に配流し、もう1人の子を血鹿(値嘉、近、知訶)島(長崎県の五島列島全域。876年、肥前国から五島列島&平戸島が分割され血鹿島が新設されたが、10世紀初頭までに廃止)に配流した)とある。和歌に「伊良湖の島」とあるので、「伊勢国の伊良湖」だと思い込んでしまったのであろう。

★流罪(島流し)
 ・遠流(おんる)     :佐渡、伊豆、隠岐、安房、土佐、常陸の6ヶ国
 ・中流(ちゅうる)    :信濃、伊予の2ヶ国
 ・近流(こんる/ごんる) :越前、安芸の2ヶ国

『万葉集』に「伊勢國伊良虞嶋」「伊豆島」が出てくる。
「伊勢國伊良虞嶋」は「定義①水域に囲まれた陸地」により「伊勢国から見た神島(折口信夫等の神島配流説)、伊勢小島」とも、「定義②水の向こうに見える陸地や半島」により「伊勢国から見た伊良湖岬、もしくは、渥美半島」とされている。
 とはいえ、伊勢国や三河国は、流罪地としては(子供たちが流された伊豆島や血鹿島と比べて)近すぎるので、『日本書紀』や『万葉集』の左注にあるように、麻続王の流刑地は「因幡国イラゴ」(因幡国配流説)であるのに、「イラゴ」と聞いた『万葉集』の編集者は、同じ地名の「伊勢国イラゴ」だと勘違いしたようである(『萬葉集注釈』)。
 「イラゴ島」は、「(人里離れた)イラゴ集落」であろう。「島」は「(海に浮かぶ島のように)山間部にポツンと孤立する集落。陸の孤島」であろう。
──流刑地にふさわしい。
と思っていたが、山間部で海草が採れるはずがない。改めて調べてみると、「島」とは因幡国の方言で、「磯(いそ)」の意であることが分かった。
『万葉集』(巻1-23&24)の「イラゴの島」は、「因幡国のイラゴの磯」だぁ! 万葉学の発展にまた1つ貢献してしまった。(なお、麻続王の流罪地について、『常陸国風土記』には「常陸国行方郡板来村」(茨城県潮来市)とある。「いらこ→いたこ」という発想の誤伝であろう。さらに言えば、三河国伊良湖の麻続王伝説は、大友皇子、もしくは、柿本人麻呂の誤伝か?)

(3)伊豆島


上の万葉歌の左注に「伊豆島」が出てくる。
「伊豆島」は「定義②水の向こうに見える陸地や半島」により「伊豆国」「伊豆半島」だと誤解しそうであるが、ここでは流刑地として知られる「伊豆大島」のことである。

 なお、「伊豆」は、現在は「いず」であるが、本来は「出づ(いづ)」である。(「豆」は、呉音が「づ」で、漢音が「とう」である。)
・半島で、出っ張った地形だから「出づ」
・温泉が出るから「出づ」
・火山の噴火で煙りが「出づ」
・火山活動で島が海中から「出づ」

2.「蛭島」


 源頼朝は、池禅尼の助命嘆願により、死罪を免れ、「蛭島」に流された。流刑地といえば、大島であるが、「蛭島」は大島の異称ではないようである。なお、この「蛭島」については、『吾妻鏡』の「治承4年(1180年)8月17日」条に「蛭島通」、「治承5年(1181年)2月18日」条に大河戸重行が「去年伊豆国蛭島」に配流されたとある。

 最近、思いついたのは、源頼朝を「蛭島」に流したのは、池禅尼であり、平清盛を騙したのではないかということだ。「蛭島に流す」と聞いた平清盛は、「伊豆には多くの島があると聞く。蛭島も、大島のような島であろう。なら安心だ」と思ってしまったのではないだろうか?

 「蛭島」の所在地は不明であるが、静岡県伊豆の国市四日町蛭島だとすると、島名でもなく、海岸部の地名でもなく、内陸部になる。「蛭島」は狩野川の中洲(川中島)で、「蛭島」という名の由来は、
・説①「蛭の形をした(細長い)川中島」の意(地形説)
・説②「蛭が多く生息する島(川端の高所)」の意
の2説があり、説①が有力であるが、「川中島」は、ワタシ的には「平地」のイメージ(遠江国敷智郡蛭田郷など)であり、説②が正しく、蛭は「田んぼの蛭」ではなく、山蛭ではないだろうか? もちろん、「川中島」が藁科川の川中島「木枯ノ森」(「木枯森」とも表記)のような形状であれば別だが。(いつか現地へ行って確認したい。)

※「田んぼの蛭」:『鎌倉殿の13人』において、源頼朝から離れない北条義時を、北条政子が評した言葉。現代人なら「金魚の糞」と言うが、北条政子は、金魚を知らないのであろう。
 江戸時代の滑稽本に「どうもお前の咄は、金魚の糞のやうに、馬鹿長く引ずるからじれってへ」とあり、「金魚の糞」とは、本来は「大勢の人が、1人の人にぞろぞろとついて回る様」を言う。

※『義経記』には、「伊豆の北条奈古谷の蛭が島」とある。これだと、
  伊豆>北条>奈古谷>蛭が島
となってしまうが、奈古谷は北条の北東、蛭島は北条の東の地名である。

■『義経記』
 朝長も死にぬ、明くる正月の初めには、父も討たれしに、御辺の命死し兼ねて、美濃国伊吹山の辺を迷ひ歩き、麓の者共に生捕られ、都まで引き上せ、源氏の名を流し、既に誅せられ給ふべかりしが、池殿の憐み深くして、死罪流罪に申し行ひて、弥平兵衛に預け、永暦の八月の頃かとよ、伊豆の北条奈古谷の蛭が島と言ふ所に流され、廿一年の星霜を経て、田舎人となりて、さこそ頑はしくおはらすらめと思ひしに、少しも違はざりけり。

3.「賀島」


『吾妻鏡』「治承4年10月20日」条(「富士川の戦い」)に「武衛令到駿河國賀嶋給」とある。賀島(かしま/かじま/がしま)は、現在の静岡県富士市加島町である。

「かしま」の由来は、
・上島・中島・下島の「かみじま」の転訛
・鹿嶋神社が祀られている島
・鹿が川を渡る場所
で「島」は、
・「スマ(洲間)」で中洲、三角洲のこと
・「シ」は「ス(洲)」の転訛で、「マ」は「ムラ(村)」の反し
と2説ある。「洲」(東国の「スガ(須賀、洲処)」)なのか、「集落のある洲」なのか。

■『鎌倉殿の13人』(第9回)「静岡県富士市・清水町」
静岡県富士市。富士川の合戦は、この川の河口付近が舞台となりました。当時は川幅が広く、多くの中州がありましたが、新田開発が進み、今の姿となっています。市内には島の字を持つ地名が点在し、かつての川の大きさを想像することができます。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/kikou/09.html

参考①:『日本国語大辞典』第二版(小学館)


しま【島・嶋】
〔名〕
①周囲を水で囲まれた陸地。分布の状態から諸島、列島、孤島などに、また、成因から陸島、洋島に区別され、洋島には火山島、珊瑚(さんご)島などがある。
②水流に臨んでいる①のようなところ。洲(す)。
③泉水、築山などのある庭園。林泉。
④「しまだい(島台)①」の略。
⑤集落、村落の意。
⑥ある一区画をなした土地。一般社会と区別して限られた地帯。特に、遊廓や貧民街、やくざの縄張りなどの地帯をいう。勢力範囲。地盤。縄張り。界隈。
⑦大坂で、新町、島原を廓(くるわ)というのに対して、それ以外の色町の称。江戸でいう岡場所。
⑧頼りや助けとなる物事。よすが。
⑨刑罰として罪人の送られる遠隔の地。遠流の地。特に近世では、八丈島、三宅島など。→島流し。
⑩(形動)えたいの知れないこと。出所や素姓のはっきりしないさま。
⑪①の形の染模様。→島摺り。
⑫→しま(縞)。
⑬うどん屋仲間でそばをいう。
⑭盗人仲間の隠語。
⑮大阪堂島をいう。
⑯米をいう。
⑰貸座敷、遊郭をいう。
【補注】「しま」の「ま」は、「浜」「沼」「隈」「まま(崖)」など、ある地勢・地形を表わす語の第二音節に共通し、それは地名「有馬・入間・笠間・勝間・群馬・相馬・志摩・但馬・筑摩・野間・播磨・三間」などにも多く認められるところから、地形を表わす形態素と見る説もある。
【方言】
[一]〔名〕
①海面上に出ている岩。《しま》静岡県521
②暗礁。《しま》愛知県日間賀島579三重県584586603
③磯(いそ)。《しま》鳥取県因幡045
④土中から出る、赤く光る石のような土。《しま》伊賀†035
⑤川端の土地。また、川端の低地にできた耕地。《しま》富山県東礪波郡402岐阜県揖斐郡507徳島県811《しまち〔─地〕》岐阜県揖斐郡507
⑥川、または沢の曲がりにできている平地一円の地区。《しまどおり》とも。愛知県北設楽郡039
⑦広い田園。平野。《しま》徳島県811
⑧ひと続きの田。《しま》富山県砺波398長野県下伊那郡054
⑨苗代のまきしろ。《しま》長野県下伊那郡054愛知県東加茂郡565
⑩村の中の一小区。小字(こあざ)。《しま》愛知県宝飯郡062
⑪村里。集落。《しま》鹿児島県喜界島983沖縄県首里993
⑫領地。領地としてもらう集落。《しま》沖縄県首里993
⑬故郷。出身の集落。《しま》鹿児島県喜界島983沖縄県首里993石垣島996
⑭田舎。《しまま》とも。沖縄県石垣島996
⑮刈り取って束ねた稲などを、立てて干すために十把とか十二把とかまとめたもの。《しま》陸奥下北†051青森県075082083
⑯飯。《しま》大阪市062奈良県吉野郡684
[二]〔接尾〕
刈り取った穀物の束を立てて干すために十把ぐらいずつまとめたものを数える語。《しま》陸奥下北†051青森県津軽075三戸郡083【語源説】
(1)セマ・セバ(狭)の義〔日本釈名・箋注和名抄・大言海〕。
(2)シマ(締)の義〔日本声母伝・類聚名物考・名言通・本朝辞源=宇田甘冥・国語の語根とその分類=大島正健〕。
(3)水中にスムベキ(居可)所の意で、スミの転語〔東雅・言葉の根しらべ=鈴江潔子〕。
(4)シはス(洲)の転で、マはムラ(村)の反という〔日本釈名〕。(5)スマ(洲間)の義〔和語私臆鈔・言元梯〕。
(6)スイソヤマ(洲磯山)の義〔日本語原学=林甕臣〕。
(7)人離れたる村の意のサリムラの反〔名語記〕。
(8)シホウ(四方)から見えるヤマ(山)の義か〔和句解〕。
(9)本来は邑落を意味する語〔島の人生=柳田国男〕。
(10)本来は宮廷領を意味する語〔万葉人の生活=折口信夫〕。

参考②:折口信夫『真間・蘆屋の昔がたり』


 さてかういふ風に二つの書物に現はれてをりましても、二つについて我々が受ける印象といふものは、いづれも伝説的だといふことは言うて差支へないことだと思ひますし、恐らくその当時はつきりしたことを知つてをつた人々は、それを取巻いてゐる事件、更に遠い所にゐるといふ人達は、それと同じやうに起つた事件を伝説として取扱つてゐたに違ひないと思ひます。所がさういふことを万葉集から拾つて見ますと、いろいろな事柄が出て参りまして、それこそ枚挙にいとまもないわけですが、それで非常に似てゐることで違つた形を見せてゐること、これも名高い事実をかりて来た万葉集の初めの方にあります麻績王といふ人が、伊勢国の伊良虞の島に流された。伊良虞の島では外から見た地形に、はつきり別々の区画が見えるから、伊良虞崎のことだらうと云ふ人も多いが、いや伊良虞崎に向つて行く途中にある神島といふ島だらうといふ説があります。――私も実は其説ですが、そこに麻績王が流されたことになつてゐる。例の通り万葉集に出てゐるから、その歌だけで、その地から伝つて来たものと云ふことも考へられるでせうけれども、これはもつと材料があります。天武天皇紀には、麻績王は因幡へ流され、麻績王の二人の子供は九州の血鹿島と伊豆の島の二つの島へ流されたといふ風に書いてございます。これはいつも註釈本に引用することですから、新しく申すのも恥しい位のことです。所が常陸風土記にも御承知の通り、行方郡の板来で、あの事実は、自分の所の歴史だとしてをります。此は後の出島の潮来であつた訣です。万葉では伊良虞の島といつてゐる。常陸国では板来だといふ。因幡説でも、やはり別のいたこ・いらこがあつたのでせう。
 因幡国の一地方で伝へてゐたのか、或は宮廷などの資料がさふ言う形で残つてをつたのか、謂はゞ、日本紀系統ではさう伝へた訣ですが、さういふやうになるともう訣りません。実際は、初めから訣らないのでせう。日本紀が正しいと言ふのは、以前の学者ならきつと、さうするでせう。ともかくさういふ伝へのあつた所が、奈良朝には、奈良朝関係の文献に三ヶ所ある。三ヶ所あるから、其中一つは正しいのだとさう簡単には行きません。どこかが真実の所で、あと二つは物語がその後から出来た。或は前からあつたものが、物語が一緒になつてしまつたといふ風に考へられゝば、学問は楽なのです。さういふ風な地名があつたのでせう。それはその地名をば歌が指定してをりますから。
 「いらごの島の玉藻刈ります」と同情した歌も、「浪に濡れ、いらごの島の玉藻刈りはむ」と答へた歌も、伊勢国説を主張してゐるのです。何にしても、この地名を中心にして、三ヶ所がさういふことを言つてゐたものでせう。これは、三種類の奈良文献から起つたことでなしに、歌が元になつてゐるのです。三通りの外にまだ幾通りか、麻績王流竄の地が主張せられてゐたかも知れません。其上に麻績王ではなしに、別の王を中心として伝へたもの、さう言ふ無限の伝来が残されてゐたことが思はれます。
 併し今我々はさういふことを問題にするのではなしに、貴い人が波にぬれていらご(いたこ其他)の島の玉藻を刈つて喰べてゐる。さういふ境遇に落ちてゐる。これは都から遠い田舎にさすらうて来て、苦しんで生きてゐるといふことを、行きずりの同情者が歌ひ、麻績王が答へてゐる。

※恒松侃「麻続王の流刑地を巡って

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