見出し画像

2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第16回)「伝説の幕開け」


 『月刊エレクトーン』は、1971年に創刊され、昨年、50周年(2021年12月号が通巻600号)を迎えました。
 「エレクトーン」は、YAMAHA(社名は、日本楽器製造株式会社(通称「にちがく」)→ヤマハ株式会社(通称「やまは」))製の電子オルガンの登録商標です。技術者兼エレクトーン奏者の鱸真次さんらが開発し、1958年にプロトタイプ「E-T」が登場し、お嬢様・真美子さん(エレクトーン奏者)がお生まれになった翌1959年に初号機「D-1」が発売されると、鱸真次さんはエレクトーンでのヨーロッパ演奏ツアーを行い、エレクトーンの名を全世界に広めました。当時は「いろいろな楽器の音を出せる電子オルガン」でしたが、現在はオーケストラ並みの演奏ができ、『鎌倉殿の13人』のメインテーマも、エレクトーン1台で再現できます。
 真美子さんは東京にお住みですが、真次さんは、YAMAHA本社がある静岡県浜松市の御前谷(広沢小→蜆塚中の学区)に住んでおられます。御前谷は、徳川家康の正室・築山御前が自害(暗殺?)された場所で、お墓があったそうですが、広沢の西来院に遷されました。御前谷にオートレース場が出来るということで、YAMAHAが買い占めましたが、他の場所に出来たので、売りに出され、YAMAHAの関係者が購入しました。
※広沢小→蜆塚中出身の人物には、浜松市長・鈴木康友氏(1957年生まれ)、ノーベル賞受賞者・天野浩氏(1960生まれ)、『苺ましまろ』の漫画家・ばらスィー氏(1980年生まれ)などがいます。
 浜松市の御前谷は「ごぜんだに」、静岡市の御前谷は「ごぜんや」と読みます。「谷」の読み方は、一般的に、西日本では「たに」、東日本では「や」です。兵庫県神戸市須磨区一の谷町の「一の谷」は「いちのたに」、茨城県猿島郡境町一ノ谷の「一ノ谷」は「いちのや」と読みます。

画像1

http://www.yoshinaka.info/

0.ここまでの話


<寿永2年(1183年)略年表>

5月11日    「倶利伽羅峠の戦い」(源義仲、平家軍を破る)
6月1日      「篠原の戦い」(源義仲、平家軍を破る)
7月25日      平家都落ち(後白河法皇は比叡山へ)
7月27日      後白河法皇、錦部義高と共に帰京
7月28日      源義仲、入京
7月30日      後白河法皇、論功行賞発表。第1位は源頼朝。
8月10日      源義仲、従5位下、左馬頭、備後守に補任
8月16日      源義仲、不服を申し立て、伊予守に任替
8月20日      後鳥羽天皇、即位(天皇が2人存在)
9月19日      源義仲、後白河法皇より平家追討を命じらる。
9月20日      源義仲、平家追討に出発
9月28日      源頼朝、後白河法皇に多くの引出物を贈呈
10月9日         源頼朝、赦免さる。従5位下に復位。
10月13日    源義仲、従5位上に昇叙
閏10月1日   源義仲、「水島の戦い」で平家軍に惨敗
閏10月14日 源頼朝に「寿永2年10月宣旨」が出される。
閏10月15日 源義仲、帰京
閏10月29日 後白河法皇、源行家との双六に夢中
11月4日         源義経、「不破の関」に到達
11月17日    源義仲、後白河法皇より平家追討を命じらる。
11月19日     「法住寺合戦」(源義仲、後白河法皇を幽閉)
12月1日         源義仲、院御厩別当に任官
12月10日       源義仲、左馬頭を辞任し、源頼朝追討令を受ける。
12月22日       梶原景時、上総広常を暗殺


 源義仲 (みなもとのよしなか。木曽氏の祖・木曽義仲、旭将軍)は、河内源氏・源義賢の次男で、源頼朝&義経兄弟とは従兄弟にあたる。
 源義仲は、治承4年(1180年)、「以仁王の令旨」によって挙兵した。寿永元年(1182年)、都から逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、寿永2年(1183年)5月11日の「倶利伽羅峠の戦い」、6月1日の「篠原の戦い」で平家の大軍を破ると、平家は、7月25日、安徳天皇と「三種の神器」と共に西国に逃げた。(後白河上皇は、比叡山に逃げた。)7月27日、後白河法皇は、源義仲に同心した山本義経の子・錦部冠者義高に守護されて都に戻り、翌7月28日、源義仲が入京した。源義仲には「養和の飢饉」と戦乱で荒廃した都の治安回復を期待されたが、寄せ集めの源義仲軍による京の治安の悪化、大軍が都に居座ったことによる京の食糧事情の悪化、皇位継承への介入(源義仲は北陸宮を天皇にしようとしたが、結局は8月20日、高倉上皇の子が後鳥羽天皇になった)と、後白河法皇の期待を裏切り、源義仲は後白河法皇と不和となった。
 源義仲は後白河法皇から「西国の平家討伐」を口実に都から追い出され、西国では苦戦を続け、閏10月1日の「水島の戦い」では平家軍に惨敗した。そんな中、源頼朝に「寿永2年10月宣旨」が出されて、源頼朝に東国知行権が与えられたことや、源頼朝の弟・源義経が上洛途中である事を知った源義仲は、平家との戦いを切り上げ、閏10月15日、帰京した。
 11月4日、源義経軍が「不破の関」にまで達し、追い詰められた源義仲は、11月19日、法住寺殿を襲撃し、後白河法皇を捕縛し、五条東洞院の摂政邸に幽閉した(「法住寺合戦」)。

 こんな中、「都の事(後白河法皇の幽閉、源義仲政権の発足、後白河法皇による源頼朝追討の院庁下文の発給など)に右往左往することなく、足場(坂東)を固めよ」と諌言した上総広常が殺された。(一説に、上総広常は、源義経上洛反対者論者だったという。)皮肉な事に、上総広常の粛清により、坂東武者は(恐怖に支配されて)一枚岩となった。

1.木曾殿最期


<寿永3年(1184年)略年表>


1月2日     源義仲、従4位下に昇叙
1月11日      源義仲、征東大将軍に就任
1月15日      源義仲、征夷大将軍に就任
1月17日    「治承六年七月付上総国一宮奉納上総広常願文」発見
1月20日      源義仲軍、源義経軍に敗北(「宇治川の戦い」)
1月21日      源義仲、討死(「粟津の戦い」)
4月21日   大姫、源義高を逃がす。
4月26日   源義高、捕らえられ、藤内光澄に討たれる。享年12。

 寿永3年(1184年)1月20日。源義仲を追討するため、源範頼(大手軍3万騎)&源義経(搦手軍2万5千騎)が、尾張国で2手に分かれて進軍し、源範頼は、美濃国を経て京都の東の近江国瀬田、源義経は、伊勢&伊賀国を経て京都の南の山城国宇治についた。(前回のドラマの冒頭で、源義経は尾張国を過ぎて近江国にいたが、近江国は通っていない。)
 木曽義仲(100余騎)は院御所を守護し、今井兼平(500余騎)を瀬田、志田義広(300余騎)を宇治、樋口兼光を源行家がいた河内国長野へ派遣した。下掲『吾妻鏡』には、源範頼と源義経が共に侵攻して後白河法皇を解放したとあるが、実際は、源範頼は瀬田に留まり、源義経が「宇治川の戦い」で源義仲軍を破り、大和大路を北上して、入洛した。

               (北陸へ逃亡)
                 │
       西
(平家と合流)──京都──(源範頼と合戦)
                 │
               (源義経と再戦)

 源義仲は、後白河法皇を奉じて北陸へ下るつもりであったが、後白河法皇の身柄を確保できず、北陸へは巴御前を向わせ、自身は「京の七口(きょうのななくち)」のうち、東の出入口「粟田口」から山科を経て、「死ぬ時は同じ場所で」と誓いあっていた今井兼平と合流すべく瀬田に向い、粟津で合流できた。自害に向いた松原を見つけたが、馬が深田に足をとられたところを、石田為久(相模国大住郡糟屋庄石田郷(神奈川県伊勢原市)の武将。三浦義明の従孫。 石田三成の祖先)が放った矢を顔面に受けて絶命し、今井兼平も刀を口にくわえ、殉死した。
 巴御前については、北陸に向い、消息不明となったとされるが、『鎌倉殿の13人』では、源義仲が長男・源義高への手紙を託し、「わざと捕らえられて鎌倉へ行け」と指示していた。そして、巴御前を捕らえた和田義盛は、

「気に入った!」(和田義盛)

 一説に、北陸へ落ち延びた巴御前を源頼朝が見つけて鎌倉へ呼び、和田義盛と結婚させたという。「和田合戦」の後、巴御前は出家し、91歳で亡くなったという。
 なお、畠山重忠の正室は北条時政の娘であるが、母不明、生年不明。言い換えれば、北条義時と同母なのか、姉なのか、妹なのか不明である。(私の説では、母親は足立遠元の娘で、北条義時の妹。北条義時が「未婚の妹が2人いる」と言っていたが、稲毛重成室と畠山重忠室であろう。)
 三浦義村の長女・初は、後の矢部禅尼(1187-1256)で、実はまだ生まれていない。三浦義村は、「金剛の良い遊び相手になる」と言っていたが、後に北条泰時の正室となっている。

※木曽義仲と松尾芭蕉「「旭将軍」木曽義仲に関する2題」
https://note.com/sz2020/n/n9f6f1f75be21

■『吾妻鏡』「寿永3年(1184年)1月20日」条
 壽永三年正月小廿日庚戌。蒲冠者範頼、源九郎義經等、爲武衛御使、率數万騎入洛。是爲追罸義仲也。範頼自勢多參洛、義經入自宇治路。木曾以三郎先生義廣、今井四郎兼平已下軍士等、於彼兩道雖防戰。皆以敗北。蒲冠者、源九郎、相具河越太郎重頼、同小太郎重房、佐々木四郎高綱、畠山次郎重忠、澁谷庄司重國、梶原源太景季等、馳參六條殿、奉警衛仙洞。此間、一條次郎忠頼已下勇士、競争于諸方、遂於近江國粟津邊、令相摸國住人石田次郎誅戮義仲。其外錦織判官等者逐電云々。

(寿永3年(1184年)1月20日。源範頼&源義経が、源頼朝の使者として、数万騎の軍隊を引き連れて京都へ向かった。これは、源義仲を追討するためである。源範頼は、(京都の東の)瀬田から京都に参じ、源義経は、(京都の南の)宇治道から京都へ入った。木曽義仲は、志田義広、今井兼平以下の武将をに、両方の道を塞がせたが、皆、負けた。源範頼&源義経は、河越重頼、河越重房、佐々木高綱、畠山重忠、渋谷重国、梶原景季らを連れて(後白河法皇が幽閉されている)六条殿へ馳せ参じ、仙洞(後白河法皇の御所)を護衛した。この間、一条忠頼らの勇士は、(源義仲を捜して)あちらこちらへ競って走り回り、遂に近江国粟津の辺りで、相模国の土豪・石田為久に、源義仲を誅殺させた。その他、錦織義広らは逐電したという。)

「武家の棟梁」征夷大将軍にまで登り詰めた1週間後、「旭将軍」源義仲は討死した。人はこれを「60日天下」と呼ぶ。
 また、源頼朝軍が源義仲を討ち取ったことで、源頼朝が「源氏の棟梁」と認識されることとなった。

■九条兼実『玉葉』「寿永3年(1184年)1月20日」条
 廿日庚戌。天、晴れ。物忌み也。卯の刻、人告げて云く、「東軍、すでに勢多に付く。未だ西地に渡らず」云々。相次いで人云く、「田原手、すでに宇治に着く」云々。詞未だ訖わらざるに、「六條川原武士等馳走す」云々。仍って人を遣わし、之を見せしむる処、事すでに実なり。「義仲方軍兵、昨日より宇治に在り。大将軍美乃の守・義広」云々。而るに件(くだん)の手、敵軍の為に打ち敗られ了(をはんぬ)。東西南北に散り了。即ち、東軍等追い来たり、大和大路より入京す(九條川原辺に於いては、一切狼藉無し。最も冥加なり)。踵を廻さず、六條末に到り了。義仲勢元幾ばくならず。而るに勢多、田原の二手に分かつ。其の上、行家を討たんが為に、又、勢を分かつ。独身在京の間、此の殃に遭う。先ず院中に参り、御幸有るべきの由、すでに御輿を寄せんと欲するの間、敵軍すでに襲来す。仍って、義仲、院を棄て奉り、周章対戦の間、相従う所の軍、僅かに三、四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ち了。長坂方に懸けんと欲す。更に帰り、勢多手に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて伐り取られ了、云々。東軍一番手、九郎軍兵、加千波羅平三云々。其の後、多く以て院の御所の辺に群参す云々。法皇及び祇侯の輩、虎口を免がれ、実に三宝の冥助也。凡そ日来、義仲支度、京中を焼き払い、北陸道に落つべし。而るに、又、一家も焼かず、一人も損せず、独身梟首せられ了。天の逆賊を罰す。宜しきかな、宜しきかな。義仲、天下を執るの後、六十日を経る。信頼の前蹤(ぜんしょう)に比べ、猶、其の晩(おそ)きを思う。 今日、卿相(けいしょう)等、参院すと雖も、門中に入れられず、云々。入道関白(注:藤原基房)、顕家を以て使者と為し、両度(ふたたび)上書す。共に答へ無し。又、甘(新?)摂政・顕家、車に乗りて参入す。追ひ帰され了、云々。弾指すべし、弾指すべし。余、風病に依りて参入せず。大将、又、病悩。仍って、参らず也。恐ろしや、恐ろしや、恐ろしや。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920220/8

2.一ノ谷の戦い

一の谷

※「一の谷」と「一ノ谷」:本記事では「一ノ谷」
※「逆落し」と「坂落し」:本記事では「逆落し」

<寿永3年(1184年)略年表>

1月26日   後白河法皇、平家追討と「三種の神器」奪還を命じる宣旨
1月29日      源氏軍、京都から出陣(源範頼は山陽道、源義経は丹波路)
2月4日   「三草山の戦い」
2月6日        平家へ後白河法皇からの使者が訪れて和平勧告
2月7日        「一ノ谷の戦い」

                 北:鵯越
             ↓源義経    ↓多田行綱
        西端:一ノ谷口
──本陣:福原──東端:生田口←源範頼
                 │
               (瀬戸内海)

       ・東端(生田口)    :源範頼     vs 平知盛&平重衡
       ・中央(本陣=福原):多田行綱 vs 平忠盛&平教経
       ・西端(一ノ谷口)    :源義経     vs 平忠度
       ・南=瀬戸内海   :負けた平家は船で逃走

<源氏の侵攻経路>

・大手軍:源範頼は、最短距離(山陽道)を往き、東端の生田に着陣
・搦手軍:源義経は、迂回路(丹波路)を往き、西端の一ノ谷を攻撃
・多田行綱(地元の武将であり、土地勘がある)
  説①:源範頼と昆陽野で分かれる→鵯越→本陣・福原攻撃
  説②:源義経と三木で分かれる→鵯越→本陣・福原攻撃

<源氏の勝因>

①後白河法皇の和平勧告を信用し、交戦はないとして警戒を緩めたこと。
②伝説:源義経の奇襲「鵯越の逆落し」→史実:多田行綱の活躍

■「一ノ谷」

 摂津国と播磨国の国境には3つの谷があり、東から「一ノ谷」「二ノ谷」「三ノ谷」という。

「あれに見え候ふ所は大物の浜、難波浦、崑陽野、打出。あし屋の里と申すはあのあたりにて候ふ也。南は淡路嶋、西は明石浦、汀につづきて候ふ。火の見え候ふも、幡摩・摂津二ヶ国の堺、両国の内には第一の谷にて候ふ間、一の谷と申し候ふなり。さがしくは見え候へども、小石まじりの白砂にて、御馬はよも損じ候はじ。一の檀こそ大事の所にて候へ。巌高くそびえ臥して、馬の足立つべしともみえ候はず。少しもふみはづして、まろび入り候ひなむ馬は、骨を摧かずと云ふ事候ふまじ」(播磨国安田庄の下司・多賀菅六久利)

鵯越

「鵯越」は、今風に言えば、「鵯峠を越える峠道」であり、天智天皇に献上する鵯を運んだ道である。当然、馬も通ることができる。

「伝へ承り候ふは、天智天皇、摂津国ながえの西の宮にすませおはしましし時、あまた小鳥を召されけるに、武庫山満願寺の峯にて鵯を取り給ふ。御使は大友の公家と云ひける人也。鵯をさげ、此の坂を越えたりけるに依りて、鵯越とは名付く。又、当時見候へば、春の霞の深くして、み山のこぐらき時は、南山にすまふ鵯の北の山へ渡りて、栖をかけ、子をうみ、秋の霧はれて、こずゑあらはに成り候へば、おくも雪に畏れて、北なる鵯が南へわたる時は、此の山をこゆ。さて、鵯越とは申し候ふ」(相川里の斧柄の妾)

■『平家物語』
 九郎義経は、一谷の上、鉢伏、蟻の戸と云ふ所へ打ち上がりて見ければ、軍は盛りと見えたり。下を見下ろせば、或いは十丈計りの谷もあり、或いは二十丈計りの巌もあり、人も馬もすこしも通ふべき様なし。(中略)馬二疋ぞ落としにける。かげは何とかしたりけむ、死して落ちたり。葦毛は尻足をしき、前足をのべて、岩に伝ひて落としけるほどに、事故なく城の内へ落ち立てて、御方に向かひて、たからかに二音、三音ぞいななきける。(大意:源義経が馬を2頭を落とすと、1頭は死んだが、もう1頭は無事に駆け下って嘶いた。)(中略)畠山申されけるは、「我が秩父にて、鳥をもー羽、狐をも一つ立てたる時は、かほどの巌石をば馬場とこそ思ひ候へ。必ず馬にまかすべきに非ず」とて、馬の左右の前足をみしと取りて引き立てて、鎧の上にかき負ひて、かちにてまつ前に事故なくこそ落とされけれ。

 ドラマ『鎌倉殿の13人』では、「鉢伏山」の「蟻の戸」から先に馬を落とし、次に人が下りたとした。また、平家の本陣は「一ノ谷」に置かれ、安徳天皇と平宗盛がいたとした。

「馬を背負ってでも下りてみせます。末代までの語り草になりそうです」(畠山重忠)

 畠山重忠は、「馬にまかすべきに非ず」と、馬を背負って岩場を駆け下ったというが、銅像のように、前足を肩にかけただけで、馬は後ろ足で歩いたと思われる。とはいえ、『吾妻鏡』では、畠山重忠は、源範頼の大手軍に属しており、源義経の搦手軍に属してはいない。また、北条義時の名は無い。鎌倉の源頼朝のそばにいたのであろう。(ドラマ『鎌倉殿の13人』の北条義時は戦わず、梶原景時と一緒に「一ノ谷」で源義経の戦い振りを呑気に眺めていた。『吾妻鏡』では、梶原景時は、源範頼の大手軍に属しており、源義経の搦手軍には属してはいない。)

■『吾妻鏡』「寿永3年(1184年)2月4日」条
壽永三年二月大四日癸亥。平家、日來、相從西海、山陰兩道、軍士數万騎、搆城郭於攝津与播磨之境一谷、各群集。今日、迎相國禪門三廻忌景、修佛事云々。

(寿永3年(1184年)2月4日。平家は、この頃、西海道(山陽道)と山陰道の兵士数万騎を従え、城郭「一ノ谷城」を摂津国と播磨国の国境の一ノ谷に構え、各々集っている。今日は、平清盛の三回忌で、法事を行ったという。)

■『吾妻鏡』「寿永3年(1184年)2月5日」条
壽永三年二月大五日甲子。酉尅、源氏兩將到攝津國。以七日卯剋、定箭合之期。
大手大將軍、蒲冠者範頼也。相從之輩、
 小山四郎朝政  武田兵衛尉有義  板垣三郎兼信  下河邊庄司行平
 長沼五郎宗政  千葉介常胤    佐貫四郎廣綱  畠山次郎重忠
 稻毛三郎重成  同四郎重朝    同五郎行重   梶原平三景時
 同源太景季   同平次景高    相馬次郎師常  國分五郎胤道
 東六郎胤頼   中條藤次家長   海老名太郎   小野寺太郎通綱
 曾我太郎祐信  庄司三郎忠家   同五郎廣方   塩谷五郎惟廣
 庄太郎家長   秩父武者四郎行綱 安保次郎實光  中村小三郎時經
 河原太郎高直  同次郎忠家    小代八郎行平  久下次郎重光
已下五万六千餘騎也。
搦手大將軍源九郎義經也。相從之輩。
 遠江守義定   大内右衛門尉惟義 山名三郎義範  齋院次官親能
 田代冠者信綱  大河戸太郎廣行  土肥次郎實平  三浦十郎義連
 糟屋藤太有季  平山武者所季重  平佐古太郎爲重 熊谷次郎直實
 同小次郎直家  小河小次郎祐義  山田太郎重澄  原三郎淸益
 猪俣平六則綱
已下二万餘騎也。
 平家聞此事、新三位中將資盛卿、小松少將有盛朝臣、備中守師盛、平内兵衛尉淸家、惠美次郎盛方已下七千余騎、着于當國三草山之西。源氏、又、陣于同山之東。隔三里行程。源平在東西。爰九郎主如信綱實平加評定。不待曉天。及夜半襲三品羽林。仍平家周章分散畢。

(寿永3年(1184年)2月5日。午後6時頃、源氏の両将(源範頼と源義経)は、摂津国に到着した。7日の午前6時頃に「矢合わせ」(開戦)と決めた。 
 大手軍の大将は源範頼である。彼に従う武将は、
 小山朝政   武田有義   板垣兼信   下河辺行平
 長沼宗政   千葉常胤   佐貫広綱   畠山重忠
 稲毛重成   稲毛重朝   稲毛行重   梶原景時
 梶原景季   梶原景高   相馬師常   国分胤道
 東胤頼    中条家長   海老名太郎  小野寺通綱
 曽我祐信   庄司忠家   庄司広方   塩谷惟廣
 庄家長    秩父行綱   安保実光   中村時経
 河原高直   河原忠家   小代行平   久下重光
以下56000騎である。
 搦手軍の大将は源義経である。彼に従う武将は、
 遠江守義定  大内惟義   山名義範   中原親能
 田代信綱   大河戸広行  土肥実平   三浦義連
 糟屋有季   平山季重   平佐古為重  熊谷直実
 熊谷直家   小河祐義   山田重澄   原清益
 猪俣則綱
以下20000騎である。
平家は、この情報を聞いて、平資盛、平有盛、平師盛、平清家、平盛方以下7000騎を当国(摂津国)の三草山の西に置いた。源氏は同様に三草山の東に3里(約12km)離して陣を敷いた。(こうして、三草山を挟んで)東西に源平が揃った。源義経は、田代信綱や土肥実平と軍議を開き、夜明けを待たず、夜になると平資盛を襲った。それで、平家は慌てて四散した。)

■『吾妻鏡』「寿永3年(1184年)2月7日」条
壽永三年二月大七日丙寅。雪降。寅剋、源九郎主先引分殊勇士七十餘騎、着于一谷後山〔号鵯越〕。
 爰、武藏國住人・熊谷次郎直實、平山武者所季重等、卯剋、偸、廻于一谷之前路、自海道競襲于舘際、「爲源氏先陣」之由、高聲名謁之間、飛騨三郎左衛門尉景綱、越中次郎兵衛盛次、上總五郎兵衛尉忠光、悪七兵衛尉景淸等、引廿三騎、開木戸口、相戰之。熊谷小次郎直家、被疵。季重郎從、夭亡。
 其後、蒲冠者、并、足利、秩父、三浦、鎌倉之輩等競來。源平軍士等、互混乱。白旗、赤旗交色。鬪戰爲躰、響山動地。凡、雖彼樊噲張良。
 輙難敗績之勢也。加之城郭、石巖高聳而駒蹄難通、澗谷深幽而人跡已絶。九郎主、相具三浦十郎義連已下勇士、自鵯越〔此山猪鹿兎狐之外不通險阻也〕被攻戰間、失商量敗走。或策馬出一谷之舘、或棹船赴四國之地。
 爰、本三位中將〔重衡〕於明石浦。爲景時。家國等被生虜。越前三位〔通盛〕到湊河邊。爲源三俊綱被誅戮。其外薩摩守忠度朝臣。若狹守經俊。武藏守知章。大夫敦盛。業盛。越中前司盛俊。以上七人者。範頼。義經等之軍中所討取也。但馬前司經正。能登守教經。備中守師盛者。遠江守義定獲之云々。

(寿永3年(1184年)2月7日。雪が降った。午前4時頃、源義経は、精兵70余騎を選び分けて率い、一ノ谷の裏山(「鵯越」という)に着いた。
 ここに武蔵国の熊谷直実、平山季重らが、午前6時頃、密かに一ノ谷の前の道へ回り、海辺から平家の舘「一ノ谷城」のそばへ、競いながら(先陣争いをして)襲撃し、「(我こそは)源氏の先陣である」と、大声で名乗ったので、伊藤景綱、平盛継、伊藤忠光、伊藤景清らが23騎を引き連れて、木戸を開いて、戦った。熊谷直実の子・熊谷直家は負傷し、平山季重の家来は殺された。
 その後、源範頼と足利一族、秩父一族、三浦一族、鎌倉党の軍隊が競争するようにやってきた。源平の軍隊が互いに入り乱れ、源氏軍の白旗と平家軍の赤旗が混ざり合い、戦いは山を響かせ、地を動かすかであった。あの中国の樊噲(はんかい)や張良であっても、簡単には負けない勢いであった。
 そればかりか、平家軍の城郭は、岩石が高くそびえて、馬の蹄では通りにくく、谷は深山幽谷、人の通った気配さえなかった。源義経は、三浦義連らの勇士を率いて、鵯越(この山は、猪、鹿、兎、狐以外は通らない険しさである)から攻め寄せたので、平家は、なす術も無く敗走した。或る者は、馬に乗って鞭を打って一ノ谷の舘「一ノ谷城」から逃げたり、或る者は、船に乗って四国へ逃げたりした。
 ここに平重衡は、明石浦で梶原景時、庄家国らに生け捕られた。平通盛は、湊川の辺りで、佐々木俊綱に討たれた。その他、平忠度、平経俊、平知章、平敦盛、平業盛、平盛俊の7人は、源範頼や源義経の軍隊が討ち取った。平経正、平教経、平師盛は、安田義定が討ち取ったという。)
■九条兼実『玉葉』「寿永3年(1184年)2月4日」条
 四日癸亥。雨下る。
 大将第に向ふ。所労、大略了(おはんぬ)。行歩、猶、快からず、云々。
 源納言、示送して云ふ。「平氏、主上を具し奉り、福原に着き畢(おはんぬ)。九国、未だ付かず。四国、紀伊国等、勢数万」と云々。「来る十三日、一定入洛すべし」と云々。「官軍等、手を分くるの間、一方僅かに一、二千騎に過ぎず」と云々。「天下の大事、大略分明」と云々。

(4日。雨。(中略)
 源納言(源定房)が示送して言うには、
・平氏は、主上(安徳天皇)を連れて、福原に到着した。九州勢は未だに到着しないが、到着した四国、紀伊勢を合わせて数万騎だそうだ。
・来る2月13日に入洛することが決まっているそうだ。
・官軍(源氏)は、軍勢を分けたので、1隊は僅かに1000~2000騎に過ぎないそうだ。
・天下の大戦(源平合戦)の勝敗は決まった(大軍の平家の勝利が確定した)そうだ。
と。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920220/10

■九条兼実『玉葉』「寿永3年(1184年)2月8日」条
 八日丁卯。天、晴れ。
 未明、人、走り来りて云ふ。「式部権少輔範季朝臣の許より申して云ふ。此の夜半許り、梶原平三景時の許より飛脚を進めて申して云ふ。「平氏、皆、悉く伐り取り了」」と云々。
 其の後、午刻許り、定能卿来りて、合戦の子細を語る。一番に九郎の許より告げ申す。「搦手也。先づ丹波城を落とす。次いで一谷を落とす」と云々。次いで加羽冠者、案内を申す。「大手。浜地より福原に寄す」と云々。「辰刻より巳刻に至るも、猶、一時に及ばず、程無くして責め落とされ了。多田行綱、山方より寄せ、最前に山手を落とさる」と云々。「大略、籠城中の者、一人残らず。但し、素(もとより)乗船の人々、四、五十艘許り、島辺に在り」と云々。「廻らし得べからざるに依り、火を放って焼死し了。疑ふらくは、内府等か」と云々。「伐り取る所の輩の交名、未だ注進せず。仍って進まず」と云々。「剣璽、内侍所の安否、同じく以って未だ聞かず」と云々。

(8日。晴れ。
 未明に人が走って来て言った。「藤原範季が言うには、「夜中に梶原景時から飛脚が来て「平家を滅ぼした」と伝えてきた」そうだ」と。
 その後、昼頃に、藤原定能が来て、合戦の詳細を語った。
・第一に、九郎(源義経)であるが、搦手軍の大将として、まずは丹波城を落し(「三草山の戦い」)、次に一ノ谷城を落とした。
・第二に、蒲冠者(源範頼)であるが、大手軍の大将として、浜地(海岸部)から福原を攻めた。
・合戦は、午前8時頃から午前10時頃までで、1時(2時間)もかからず、すぐに攻め落とされて終わった。
・また、多田行綱が、山方から最初に山手を攻略したそうだ。
・(平家は)城に籠城していた者は、大方、討ち取られたが、最初から船に乗っていた者もいて、40~50艘の船に乗って経が島の近くにいたが、船を巡航させることができず、火を放って焼死したという。おそらく、平宗盛らと思われる。しかし、まだ合戦で討ち取った人々の交名(姓名)の一覧が提出されていないので、分からない。
・また、剣璽(草薙剣と八尺瓊曲玉)と内侍所(八咫鏡を奉安する場所)の安否(「三種の神器」の所在)も、同様にまだ不明である。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920220/11


▲「13人の合議制」のメンバー

【文官・政策担当】①中原(1216年以降「大江」)広元(栗原英雄)
【文官・外務担当】②中原親能(川島潤哉)
【文官・財務担当】③藤原(二階堂)行政(野仲イサオ)
【文官・訴訟担当】④三善康信(小林隆)

【武官・有力御家人】
⑤梶原平三景時(中村獅童)
⑥足立遠元(大野泰広)
⑦安達藤九郎盛長(野添義弘)
⑧八田知家(市原隼人)    
⑨比企能員(佐藤二朗)
⑩北条時政(坂東彌十郎)
⑪江間(北条)小四郎義時(小栗旬)
⑫三浦義澄(佐藤B作)
⑬和田小太郎義盛(横田栄司)

▲NHK公式サイト『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

▲参考記事

・サライ「鎌倉殿の13人に関する記事」
https://serai.jp/thirteen
呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』」
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065261057
・富士市「ある担当者のつぶやき」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kamakuradono-fuji.html
・渡邊大門「深読み「鎌倉殿の13人」」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon
・Yusuke Santama Yamanaka 「『鎌倉殿の13人』の捌き方」
https://note.com/santama0202/m/md4e0f1a32d37
・Reco「『鎌倉殿の13人』関連記事」
https://note.com/sz2020/m/md90f1f483984

▲参考文献

・安田元久 『人物叢書 北条義時』(吉川弘文館)1986/3/1
・元木泰雄 『源頼朝』(中公新書)2019/1/18
・岡田清一 『日本評伝選 北条義時』(ミネルヴァ書房)2019/4/11
・濱田浩一郎『北条義時』(星海社新書)2021/6/25
・坂井孝一 『鎌倉殿と執権北条氏』(NHK出版新書)2021/9/10
・呉座勇一 『頼朝と義時』(講談社現代新書)2021/11/17
・岩田慎平 『北条義時』(中公新書)2021/12/21
・山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館)2021/12/23

この記事が参加している募集

テレビドラマ感想文

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。