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『築山殿異聞』(3/3)築山殿事件

──築山殿はなぜ殺されたのか?

神君・徳川家康は間違ったことはしない。
だから、正室・築山殿を殺すことは無い。
もし殺したのであれば、築山殿が相当な悪女だからか、誰かに命令されたかであろう。

・悪女①:側室への嫉妬
・悪女②:嫁との確執
・伝承①:築山殿は悪女①(性格が悪かったので殺害)
・伝承②:築山殿は悪女②(武田氏と内通していたので殺害)
・伝承③:築山殿は悪女③(鍼医師・元慶と不倫していたので殺害)

現在、上の5つの伝承は、徳川家康を擁護するための創作だとされる。

1.側室への嫉妬

 不思議なのは、徳川家康と結婚した築山殿は、すぐに2人の子(竹千代(後の信康)と亀姫)を産むが、その後、子を産んでいないことである。
 徳川家康が側室を設け、子を儲けたのは、離婚後のことだと思われるが、『どうする家康』では、西郡局を側室とし、督姫が生まれたとした。

 「側室への嫉妬」としては、妊娠した於万の方への仕打ちが有名である。

君の御うつくしみをうけて、身、おもくなりしかば、築山殿しらせ給ひ、ある夜、おまん殿をあかはだかにして縄もていましめ、浜松の城の木深き所に捨てさせられしに(後略)
((お万が)徳川家康のお手つきとなって妊娠したので、築山殿に知らせると、(築山殿は)ある日の夜、お万を素っ裸にして縄で縛り、浜松城内の林の中へ捨てさせた。その時、・・・)

『以貴小伝』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920318/1/172

 妊婦に対してひどい仕打ちだと思う(流産したらどうする!)が、徳川家康にしたら、於万の方を側室にすることは、「桶狭間の戦い」前の今川氏による三河平定戦の時に決めていたことであり、離婚を待ってのことであって、とやかく言われたくなかったと思う。(なお、生まれた結城信康の存在を、徳川家康は隠そうとした。これは、築山殿への配慮ではなく、織田信長に人質として送りたくなかったからだという。)

2.嫁との確執

(1)徳姫(五徳)の父・織田信長宛12ヶ条の訴状

 『三河物語』によれば、徳川家康の長男・信康の正室である織田信長の長女・徳姫(五徳)が、夫・信康や姑・築山殿(徳川家康の正室)の悪行を12ヶ条にして酒井忠次に持たせて父・織田信長に渡したのが確執の始まりだという。

★徳姫(五徳)の12ヶ条の訴状(推定)
①築山殿は、私と信康様との仲を裂こうとする。
②築山殿は、女子しか生んでない私の事を役立たずだと言う。
③築山殿は、男子は妾に生ませればよいと、武田家家臣の娘を妾にした。
④築山殿は、不倫相手の減敬を通して武田勝頼と繋がっている。
⑤武田勝頼は、「織田&徳川滅亡後は、信康様を領主とし、築山殿を武田家家臣・小山田信茂と結婚させる」と言っている。
⑥信康は、気が荒く、私に情報を提供してくれた侍女を、私の目の前で「このおしゃべり女め」と言って殺し、さらにその口を裂いた。
⑦信康は、踊りが好きで、踊りが下手な者を射殺した。
⑧信康は、鷹狩で獲物がなかったのを出逢った僧のせいにし、その僧の首と馬を縄で繋ぎ、馬を走らせて引きずり、殺した。
⑨武田勝頼は「信康を味方にしたい」と言っているので油断しないように。
⑩築山殿は、金使いが荒く、贅沢三昧な暮らしをしている。
⑪築山殿は、武田勝頼に「織田信長と徳川家康を殺して欲しい」と言っている。
⑫(「桶狭間の戦い」の前、駿府では踊りが流行したと聞くが)近頃、岡崎城下で踊りが流行して、風紀が乱れているのは、城主の信康が暗君だからだ。

織田信長は12ヶ条のうち、1つ1つ10ヶ条まで真偽を酒井忠次に問い、酒井忠次が肯定すると、
①織田信長は信康を殺すよう命じた。(『三河物語』)
②織田信長は、信康だけでなく、築山殿についてもを殺すよう命じた。
③織田信長が息子・信康を殺すように命じたので、母・築山殿は、自ら命を絶ち、その首で息子・信康の助命嘆願をさせた。
④織田信長は信康を殺すよう、徳川家康は築山殿を殺すよう命じた。

丑之年、信康之御前樣寄り信康をさゝへさせ給ひて、十二ヶ条書き立て成られて、坂井左衞門督に持たせ給ひて、信長に遣わし給ふ。信長、左衛門督を引き向けて、巻物を開き給ひ、一々に「是れは如何」と御尋ね候へば、左衛門督、「中々存知申す」と申しければ、又「是れは」と仰せられければ、「其の儀も存知申す」と申しければ、信長、十ヶ所を開き給ひ、一々に御尋ねありければ、十ヶ所ながら存知申すとと申しければ、信長、二ヶ所をば開かせ給はで、「家の大人が、悉く存知申す故は疑ひ無し。此の分ならば、とても物には成る間敷く候間、腹を切らせ給へと家康に申すべし」と仰せければ、左衛門督、此の由、お請けを申して、罷り帰る時、岡崎へは寄らずして、すぐに浜松へ通りければ(後略)

(丑の年(天正7年(1579年))、信康の御前(徳姫)が信康を中傷して12ヶ条の訴状を書き、酒井忠次に持たせて信長のもとへ向かわせた。織田信長は、酒井忠次を近づけて巻物を開き、一つ一つ「これはいかがか」と尋ねると、酒井忠次は「よくよく知っている(その通りだと承知している)」と答えたので、また、「ではこれは」と尋ねると、「その事も知っている」と答えた。10ヶ所を開いて1つ1つ尋ねると、10ヶ所全てを承知していると答えたので、織田信長は、後の2ヶ所は開かず、「徳川家の重臣が悉く知っているのであれば。疑いの無い事だ。この分ならば、とても物にはならない。腹を切らせるよう、徳川家康に伝えよ」と仰せられた。酒井忠次は、これを承知し、帰路、(信康と徳姫がいる)岡崎へは寄らず、すぐに(徳川家康がいる)浜松へ向かった。)

『三河物語』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1906666/1/121

 徳姫が、12ヶ条の訴状を出した日については諸説あるが、いずれの説でも、殺害執行命令から殺害まで日数がありすぎるので、この説は疑わしいとされる。なお、『岡崎東泉記』では、徳姫と築山殿は仲が悪かったとする。(不仲の理由は不明。今でもよくある「嫁と姑の喧嘩」なのか、今川一族の築山殿にしたら、今川義元を討った織田信長の子だから憎かったのか。)ある時、信康が楊枝を使っていた時、「母(築山殿)にも楊枝をあげて」と徳姫に頼んだが、無視して座っていたので、信康が「あれこれ躾が悪いので、この有り様だ」と激怒すると、怒られた徳姫は、12ヶ条ではなく、10ヶ条の訴状を織田信長へ出したとしている。

月山様は関口形部殿御息女、御娵子様は信長公御息女にて、兼ねて御仲もよからず。信康公、楊枝を通させ給ひし時、「御前様に御取り給はれ」と、御申し候へば、御返事も無くして御座ありし時、信康公、局を大きに御しかり、「諸事仕付け悪敷きにより、此の如く」と仰せられ候へば、其の事をふくれて、信康公の御事、十ヶ状書きて、信長公え遣はしけり。信長公、驚かせ給いて、家康公御家老 へ申し来たり。

『岡崎東泉記』

(2)男子を生めなかった徳姫(五徳)

徳姫(「お五徳(おごとく)」とも)は、2人の子
・福子(登久姫。小笠原秀政正室)
・国子(熊姫。妙光院。本多忠政正室)
を産んだが、いずれも女子であった。
 そこで築山殿は、信康に複数の側室を置かせると、側室の1人が、見事、男子「万千代」を産んだ。もちろん、徳姫(五徳)は面白くない。

『系図纂要』

 男子を産んだ側室は、武田家家臣・日向大和守時昌の娘である。
 また、徳川家康と離婚していた築山殿には「小山田信茂と結婚すれば?」という書状が武田勝頼から届いたという。
 築山殿と武田勝頼が繋がっていたのは史実か?

 今度減敬に被仰越神妙に覚へ候。何共して息三郎殿を勝頼が味方に申進め給ひ、謀を相構え信長と家康を対立し給うに於ては、家康の所領は申すに及ばず、信長の所領の内、何れなりとも望み任せて一ヶ国、新恩として参らすべく候。次に築山殿は幸い郡内の小山田左兵衛と申す大身の侍、去年妻を失ひ、やもめ住居にて候得ば、彼が妻となし参らすべく候。信康同心の御左右候はば、築山殿をば先立てて甲州御迎え取り参らすべし。
 右の段相違するに於ては梵大帝釈四大王惣而日本六十余州大小の神祇別て伊豆箱根御所権現、三島大明神八幡大神宮大満大目在天神の神罪各々可相蒙者也。仍て起請文如件。
  天正六年十一月十六日
                           勝領(血判)
  築山殿

築山殿宛武田勝頼起請文(築山殿の文箱から見つかったというが、偽文書だとされている。)

2.性格が悪かったので殺害

★築山殿の評価
「生得悪質、嫉妬深き御人也」(『玉輿記』)
「無数の悪質、嫉妬深き婦人也」(『柳営婦人伝』)
「其心、偏僻邪佞にして嫉妬の害甚し」(『武徳編年集成』)
「凶悍にてもの妬み深くましまし」(『改正三河後風土記』)
「無頼悪質。其の上、淫乱にして、嫉妬深き婦人」(『三河志』)
「夫人今川氏、性妒悍なり」(『大日本野史』)
「その形、人に超えていと目出度く、雅やかなる御装ひおわしましければ、その世の人、慕ひ申さずと云ふ者、なかりけるなり」(浜松の地誌『曳駒拾遺』)

 ワタシ的には「性格が悪かった女性」と言うよりも、「プライドが超高かった女性」ですね。そして、プライドを傷つけられると半狂乱になる。(この性格は息子にも引き継がれ、楊枝をとってあげなかった事がトリガーとなって、激怒した。)徳川家康が築山殿を殺した理由は、「信康の死を知った彼女が狂乱して事を起こすのを未然に防ぐためだった」とする説(桑田忠親説)がある。

3.武田氏と内通していたので殺害

 三州(三河国)岡崎では、築山殿は、岡崎の築山の屋敷に住んでいたとし、その屋敷は誰でも立ち入り自由で、よく通っていた甲斐国の唐人医師・減慶(『岡崎東泉記』では「唐人医・西慶」)は、武田氏の患者、いや間者(スパイ)であり、武田氏と内通していた築山殿と武田氏との連絡役であったとする。

4.鍼医師・元慶と不倫していたので殺害

 遠州(遠江国)各地に取材に出向き、『遠江古蹟図会』を書き上げた藤長庚は、浜松に住んでいた築山殿が、体調不良となり、興津宿の名医・元慶(一説に鍼医師だという。さすがに、藤枝宿の梅安ではない)に薬を処方していただいたところ、回復したので、以後、ホームドクターにしたものの、不義密通の関係に発展し、それを知った徳川家康は、家臣・野中重政に殺させたとする。

 不義密通であれば、「離婚」「(尼寺に入れるとか、幽閉するとかして)男性から隔離」という方法もあるが、「殺害」とは手厳しい。


以上、「築山殿事件」の異聞を紹介させていただいた。

──では、築山殿事件の史実は?
──築山殿事件と信康事件は関係あるのか?

という記事については、『どうする家康』で「築山殿事件」が扱われた後に投稿したいと考えている。


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