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藤長庚『遠江古蹟図会』093「築山君之碑」

 浜松宿の北、五、六町隔てて高松山西来院と云ふ曹洞宗の寺有り。寺の境内に築山御前の墓有り。この御方は、神君の室、すなはち岡崎三郎殿の御母なり。
 この墓の由来は、往昔、神君、浜松御居城有りし節、築山御前、付き添ひまします。御不例に付き、医を求むに、東海道興津の宿に元慶と云ふ名医ありて、浜松に召され、療治を頼みしに、薬、的中し、早速、本服遊ばされしに、御前、悦び斜めならず、常に築山御前の寝所へ召されける。
 築山御前、この元慶と密通の事有りて、神君、この事をしろし召して御立腹有り。すなはち、御近習の内、野中三五郎を密かに召され宣ぶ様、「築山と元慶、不義の事あれば、元慶は国元へ帰し、築山をば人知れず殺害しくれよ」と御頼みあり。三五郎は主命と云ひ、是非なく御請け申す。
 さて、築山御前に申す様、「この浜松の在、一里隔てて、三つ山と申して景色優れ候ふ山有り。これへ御覧遊ばされしかるべし」と御勧め申し上ぐる。「拙者、御案内申し上げん。幸ひ明日、天気快晴しかるべし」と。すなはち、弁当、茶、風呂など取り持たせ、大勢女中召され、三つ山へこそ遊覧有り。頃は天正七年卯八月晦日の事なれば、木々の梢も紅葉し、上もなき御楽しみ、山の絶頂にて御弁当開かせ、山下の池水の水鳥多く遊びたる所、御覧成られ、余念なき折節を見済まし、三五郎は大身の鑓の鞘をはづし、そろそろと後より近寄り、情け無くも築山御前の脇腹を突き通す。この体を見るより、奥女中、肝を消し、裸足にて城中へ逃げ帰る。三五郎ただ一人、刀引き抜き、御首を討ち奉り、打ち掛けを脱がせ、首を包み、静々と山下を下り、彼の池にて刀、鑓の血を洗ひける。今残りて、三つ山に「血洗池」とて残る。三五郎は城中に帰り、首を御覧に備へけるに、「神妙に仕へたる者也」とて、三五郎に加増仰せ付けられける。
 やがて築山御前の幽霊、三五郎が閨(ねや)へ顕れ、「恨めしや。汝、よくも自を欺き討ちに害せしよな。我も武士の娘、不義の事知り給はば、内々にて我に告げ知らせ候へば、自害して死すばかりなり。女ながらも不覚をし、欺かれしと、恥を残す事、残念なり。いで汝を冥土の供に連れ行かん」と枕元に立ち寄り、喉に喰ひ付き、終に取り殺す。それより三五郎が女房、並びに子供、幽霊の為に害せらる。養子をすれども育たず、短命なりければ、西来院に有る碑前の上に堂を建て、前に石灯篭、手水鉢を建立し、懇ろに弔ひければ、今にては祟り無しとなり。当時、水戸侯の家来・野中三五郎、二百石取りて、家残る。浜松通行の節は、碑前に拝礼有り。廟前の額「月屈」の二字、月舟和尚の筆也。

https://dl.ndl.go.jp/pid/2538219/1/122

 東海道53次・浜松宿(静岡県浜松市)の北、5~6町(1町=109m)離れた場所に、高松山西来院(こうしょうざん せいらいいん。静岡県浜松市中区広沢)という曹洞宗・普済寺(豊川稲荷の兄寺)の末寺(普済寺13門月窓派)がある。寺の境内に築山御前の墓がある。この築山御前は、徳川家康の正室、則ち岡崎信康の生母である。
 この墓の由来であるが、昔、徳川家康が浜松城にいた時、築山御前も浜松にいた。体調を崩し、医者を探すと、東海道53次・興津宿(静岡県静岡市清水区)に元慶という名医が住んでいると聞き、浜松に呼び、治療してもらうと、調剤薬が的中し、すぐに回復したので、築山御前は大いに喜び、主治医とした。(西来院の月舟寿桂は名医であったが、1533年に遷化している。)
 築山御前がこの元慶と密通したことがあった。徳川家康は、この話を聞いて、立腹し、近習・野中三五郎重政を密かに呼び出し、「妻と元慶が密通した。元慶は興津宿へ帰し、妻は暗殺せよ」と命じた。野中重政は、主君の命令であるので、是非もなく承知した。
 さて、野中重政が築山御前に言うに「この浜松宿から1里(4km)離れた所に「三ッ山」と言って、風光明媚な所があります。御遊覧されてはいかがでしょうか?」と勧めた。「私が御案内致します。幸いなことに、明日(天正7年(1579年)8月29日)は快晴でしょう」と。それで、野弁当、茶、風呂(野点(のだて)の道具一式)などを持たせ、大勢の侍女を連れて、三ッ山へ遊覧した。天正7年(1579年)8月末の時であったので、木々の葉も紅葉し、この上無く楽しみ、山の頂上で弁当を開かせ、山麓の池(血洗池?佐鳴湖?)に水鳥が多く遊んでいる姿を御覧になられた。余念無く、野中重政は、長柄の槍の鞘をはづし、ソロリ、ソロリと後方から築山御前に近寄り、無情にも築山御前の脇腹を突き刺した。この様子を見て、侍女たちは驚き、裸足で浜松城へ逃げ込んだ。その場に残ったのは、野中重政一人だけだった。彼は、刀を抜いて築山御前の首を斬り落し、築山御前が着ていた打掛を脱がせて首を包み、静々と山を下り、山麓の池で、刀と槍についた血を洗い落とした。この池は今もあり、「血洗池」と呼ばれている。(『遠江風土記伝』『曳駒拾遺』では「洗池」。現在は埋め立てられ、「太刀洗の池跡」と呼ばれ、浜松医療センターが建設中である。)野中重政は、浜松城へ帰り、築山御前の首を徳川家康に見せると、「忠臣である」と褒め、領地を増やした。
 やがて築山御前の幽霊が、水戸藩士となった野中重政の寝所に現れ、「恨めしや。お前、よくも私を騙まし討ちにしたな。私は武士の娘である。不義密通の事を夫・徳川家康が知ってしまったと内緒で教えてくれれば、自害したものを、不覚にも騙まし討ちされて恥を残すとは、残念である。お前を冥土のお供に連れ行こう」と言って、枕元へ行き、喉を食いちぎったので、野中重政は亡くなった。その後、野中重政の妻子も築山御前の幽霊に殺された。それで養子をとったが、育たず、短命であったので、西来院にある石碑(墓石)を囲む霊廟を建て、野中重政の子孫で、水戸藩士の野中氏が石灯籠と手水鉢を寄進し、懇ろに弔ったので、今では築山御前の祟りは消えた。
・石灯籠①:「享保八癸卯八月二十九日 水戸野中三五郎重政会孫友男野中三五郎源重昭」
・石灯籠②:「文政七甲申八月二十九日 水戸野中三五郎源重同」
・手水鉢:「水戸野中三五郎重以」
 さて、水戸藩士となった野中重政は、200石取りとなった。野中家は残り、子孫が浜松を通る時には、築山御前の石碑に詣でたという。

現在の篇額

 廟前の篇額の「月屈」の2字は、月舟寿桂の書だという。(太平洋戦争の浜松空襲で焼失したが、「月屈」ではなく「月窟」だとして新調された。)

「月窟廟」の扁額
 11世玄風は築山御前の扁額を月舟に依頼し、掲げたが、昭和20年焼失し、ここに新たに復元されたのであるが、「月窓」「月屈」と読まれて来た。先住の文献研究の結果を永平寺貫主秦慧玉禅師の校照を請うたがやはり、李白の「渇飲月窟水」を出典根拠とし、「月窟」の扁額を新廟に掲げた。

西来院掲示板

 月窟廟が建てられたのは、江戸時代の11世・玄風和尚の時ですが、月舟寿桂は1533年に遷化しています。また、名の出典は「渇飲月窟水」ではないと思います。詳しくは、別稿↓で。

https://zenken.agu.ac.jp/research/30/08.pdf

「三つ山野点遊覧之図」

「三ッ山(佐鳴湖畔)へ花見に誘って殺害」という話は初めて聞いた。「鳳来寺へ花見に行かせて離婚」&「小藪(佐鳴湖畔)で殺害」の混同か?
 とはいえ、「三ッ山」から「太刀洗の池」に下る坂を「気落し坂」というので、「三ッ山」で槍で刺され、佐鳴湖方面(「太刀洗の池」方面)へ逃げる途中の坂で出血多量により失神し、刀で首を斬られたのかもしれない。

★「築山御前遺跡」
気落し坂(「三ッ山」から「太刀洗の池」に下る坂)
太刀洗の池(野中重政が刀(相州貞宗)についた血を洗い流した池)
御前谷(旧・大等ヶ谷。築山御前の胴塚と侍女の墓があった場所)
比丘尼谷(築山御前の胴塚の世話をする比丘尼が住んでいた場所)

 墓石は「天竜石」と呼ばれる青緑の自然石である。
 「虫之図」が描かれている。墓石の穴に数百匹住んでいたという蟋蟀(コオロギ)に似た虫(マダラカミキリ?)は、今は見当たらない。

石碑は自然石也。夏には小さき虫、石碑に数百疋寄り集まりて、碑を巣となして居る。其の碑に穴有りて也。穴に入る虫の象、黒面にして白紋有り。飛足白き候也。石碑は塔に有り、其の塔の天井の上は、冬は虫登りて窟に居る。夏は出て石碑に集まる。虫の形、蟋蟀(コオロギ)に似たり。予、行きて一覧したる付は四月なれば、虫、五、六十疋、碑に住みて居たり。

マダラカミキリ?

 築山御前霊廟は、太平洋戦争の浜松空襲で焼失し、墓石は倒れて割れた。
 築山御前霊廟は、昭和53年(1978年)の400年忌に、某婦人(本人の希望で匿名)の寄付金(そういえば、掛川城も寄付金で建てられた。私も研究のための寄付金が欲しいよ)で再建された。割れた墓石は、新調されず、コンクリートで固められた。

 太平洋戦争で焼失する前の築山御前霊廟の様子は、明治41年(1908年)発行の『遠江史蹟瑣談』に次のようにある。

築山御前墳墓 西来院の境内にあり。其の廟堂には「月窓」と題する扁額を掲げ、堂内に一基の墓石を建つ。墓石は青色の自然石にして、「清池院殿潭
月秋天大淑霊禅定法尼 天正七年卯八月晦日」の刻字あり。また、廟堂の内面には悉く画あり。盤桓(ばんかん)たる老松は其の北面に、四天王の立像は東西両面に画かれ、楯間には天女の■(皇+羽)翔、門戸には飛竜、其の左右には獅子の蹲踞する状を画き、格子天井には草木、花卉の画あり。此等の凡て黒痕の消滅し、彩色の剥落するを見るも、其の年月を歴るの久しきを知るべし。

岩田孝友『遠江史蹟瑣談』1908

 東照宮には劣るとも、それなりに豪華絢爛だったようだ。


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