藤長庚『遠江古蹟図会』093「築山君之碑」
東海道53次・浜松宿(静岡県浜松市)の北、5~6町(1町=109m)離れた場所に、高松山西来院(こうしょうざん せいらいいん。静岡県浜松市中区広沢)という曹洞宗・普済寺(豊川稲荷の兄寺)の末寺(普済寺13門月窓派)がある。寺の境内に築山御前の墓がある。この築山御前は、徳川家康の正室、則ち岡崎信康の生母である。
この墓の由来であるが、昔、徳川家康が浜松城にいた時、築山御前も浜松にいた。体調を崩し、医者を探すと、東海道53次・興津宿(静岡県静岡市清水区)に元慶という名医が住んでいると聞き、浜松に呼び、治療してもらうと、調剤薬が的中し、すぐに回復したので、築山御前は大いに喜び、主治医とした。(西来院の月舟寿桂は名医であったが、1533年に遷化している。)
築山御前がこの元慶と密通したことがあった。徳川家康は、この話を聞いて、立腹し、近習・野中三五郎重政を密かに呼び出し、「妻と元慶が密通した。元慶は興津宿へ帰し、妻は暗殺せよ」と命じた。野中重政は、主君の命令であるので、是非もなく承知した。
さて、野中重政が築山御前に言うに「この浜松宿から1里(4km)離れた所に「三ッ山」と言って、風光明媚な所があります。御遊覧されてはいかがでしょうか?」と勧めた。「私が御案内致します。幸いなことに、明日(天正7年(1579年)8月29日)は快晴でしょう」と。それで、野弁当、茶、風呂(野点(のだて)の道具一式)などを持たせ、大勢の侍女を連れて、三ッ山へ遊覧した。天正7年(1579年)8月末の時であったので、木々の葉も紅葉し、この上無く楽しみ、山の頂上で弁当を開かせ、山麓の池(血洗池?佐鳴湖?)に水鳥が多く遊んでいる姿を御覧になられた。余念無く、野中重政は、長柄の槍の鞘をはづし、ソロリ、ソロリと後方から築山御前に近寄り、無情にも築山御前の脇腹を突き刺した。この様子を見て、侍女たちは驚き、裸足で浜松城へ逃げ込んだ。その場に残ったのは、野中重政一人だけだった。彼は、刀を抜いて築山御前の首を斬り落し、築山御前が着ていた打掛を脱がせて首を包み、静々と山を下り、山麓の池で、刀と槍についた血を洗い落とした。この池は今もあり、「血洗池」と呼ばれている。(『遠江風土記伝』『曳駒拾遺』では「洗池」。現在は埋め立てられ、「太刀洗の池跡」と呼ばれ、浜松医療センターが建設中である。)野中重政は、浜松城へ帰り、築山御前の首を徳川家康に見せると、「忠臣である」と褒め、領地を増やした。
やがて築山御前の幽霊が、水戸藩士となった野中重政の寝所に現れ、「恨めしや。お前、よくも私を騙まし討ちにしたな。私は武士の娘である。不義密通の事を夫・徳川家康が知ってしまったと内緒で教えてくれれば、自害したものを、不覚にも騙まし討ちされて恥を残すとは、残念である。お前を冥土のお供に連れ行こう」と言って、枕元へ行き、喉を食いちぎったので、野中重政は亡くなった。その後、野中重政の妻子も築山御前の幽霊に殺された。それで養子をとったが、育たず、短命であったので、西来院にある石碑(墓石)を囲む霊廟を建て、野中重政の子孫で、水戸藩士の野中氏が石灯籠と手水鉢を寄進し、懇ろに弔ったので、今では築山御前の祟りは消えた。
・石灯籠①:「享保八癸卯八月二十九日 水戸野中三五郎重政会孫友男野中三五郎源重昭」
・石灯籠②:「文政七甲申八月二十九日 水戸野中三五郎源重同」
・手水鉢:「水戸野中三五郎重以」
さて、水戸藩士となった野中重政は、200石取りとなった。野中家は残り、子孫が浜松を通る時には、築山御前の石碑に詣でたという。
廟前の篇額の「月屈」の2字は、月舟寿桂の書だという。(太平洋戦争の浜松空襲で焼失したが、「月屈」ではなく「月窟」だとして新調された。)
月窟廟が建てられたのは、江戸時代の11世・玄風和尚の時ですが、月舟寿桂は1533年に遷化しています。また、名の出典は「渇飲月窟水」ではないと思います。詳しくは、別稿↓で。
https://zenken.agu.ac.jp/research/30/08.pdf
「三ッ山(佐鳴湖畔)へ花見に誘って殺害」という話は初めて聞いた。「鳳来寺へ花見に行かせて離婚」&「小藪(佐鳴湖畔)で殺害」の混同か?
とはいえ、「三ッ山」から「太刀洗の池」に下る坂を「気落し坂」というので、「三ッ山」で槍で刺され、佐鳴湖方面(「太刀洗の池」方面)へ逃げる途中の坂で出血多量により失神し、刀で首を斬られたのかもしれない。
★「築山御前遺跡」
①気落し坂(「三ッ山」から「太刀洗の池」に下る坂)
②太刀洗の池(野中重政が刀(相州貞宗)についた血を洗い流した池)
③御前谷(旧・大等ヶ谷。築山御前の胴塚と侍女の墓があった場所)
④比丘尼谷(築山御前の胴塚の世話をする比丘尼が住んでいた場所)
墓石は「天竜石」と呼ばれる青緑の自然石である。
「虫之図」が描かれている。墓石の穴に数百匹住んでいたという蟋蟀(コオロギ)に似た虫(マダラカミキリ?)は、今は見当たらない。
築山御前霊廟は、太平洋戦争の浜松空襲で焼失し、墓石は倒れて割れた。
築山御前霊廟は、昭和53年(1978年)の400年忌に、某婦人(本人の希望で匿名)の寄付金(そういえば、掛川城も寄付金で建てられた。私も研究のための寄付金が欲しいよ)で再建された。割れた墓石は、新調されず、コンクリートで固められた。
太平洋戦争で焼失する前の築山御前霊廟の様子は、明治41年(1908年)発行の『遠江史蹟瑣談』に次のようにある。
東照宮には劣るとも、それなりに豪華絢爛だったようだ。
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