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督姫(とくひめ)の生年

 督姫(とくひめ、徳姫)は、徳川家康の最初の側室・西郡局との娘で、徳川家康にとっては次女になる。
 実名は「ふう(富、富宇、普宇)」(於富宇)で、別名は、富子、播磨御前、良正院である。

督姫の生年については、
・永禄8年(1565)説(『徳川幕府家譜』)
・永禄11年(1568)説(『法華宗全書』)
・天正3年(1575)11月11日説(『因州鳥取慶安寺略記』『幕府祚胤伝』)
・天正4年(1576)11月11日説(『義演准后日記』)
がある。


■『徳川幕府家譜』

御部屋 西郡之方 鵜殿長門守長持の女。鵜殿大隅守長照の妹。天正年中、浜松奥勤。於岡崎、督姫君、御誕生。慶長十一丙午年五月十四日、御逝去。京本禅寺に葬る。御法名「蓮葉院殿」。
                           京  本禅寺

督姫君
永禄八乙巳年、於三州岡崎城、御誕生。御母公、西郷局。(中略)
御法名「良照院殿智光慶安大姉」。
                        京東山  知恩院

※「西郷局」は「西郡局」の誤り。
※法名を「良院殿智光慶安大姉」とするが、普通は「良院殿~」と表記する。良正院は、知恩院の塔頭であった。


■『因州鳥取慶安寺略記』「覚書」

一、富宇姫君様、天正十一癸未年、御九歳之御時、北条氏直え入輿。同十四丙戌年、小田原御陣。北条家没落之砌、姫君様十四歳に而(して)、徳川御家え御帰座被遊候。其れ已後、秀吉公之媒に而、文禄三甲午年八月十五日、御年御女に而、輝政公え再御入輿被遊候。
                              慶案寺

「富宇姫君様、天正十一癸未年、御九歳之御時」とある。天正11年に9歳ということは、逆算すれば、天正3年生まれとなる。

■『幕府祚胤伝』

督姫君(於富宇、良正院)
天正三年乙亥十一月十一日誕生(母公西郡方)

■『義演准后日記』

①「元和元年正月晦日条」
「正月晦日。雨。備前之御前はうさう御煩、年被及四十余歳故、以外大儀云々」
(1月31日。雨。疱瘡で40余歳で死亡。)

②「表紙裏の祈祷用メモ」
「子歳 池田三左内儀 卅二才。十一月十一日誕生。来四月産ノ由祈年」
(池田三左(輝政)の内儀(督姫)は天正4年(1576年)丙子11月11日生まれ。慶長10年(1607年)に32才で岩松(池田政綱)を生む。)

「子歳」生まれとある。祈祷には正確な生年月日が必要であるので、督姫は「天正4年丙子11月11日生まれ」で確定である。


 督姫の生年については、新しい本(2022年10月14日発行の本)には次のようにある。

 生年は、天正三年(1575)とみなされる。これまでの通説では永禄八年(1565)とされていた。これは元和元年(1615)に死去した時の没年齢を51歳とする所伝によっている。しかし没年齢については異説があり、41歳とするものがあった。督姫は晩年に、40歳くらいとみなされることがわかっている。また、督姫は、慶長元年(1596)から同一六年にかけて池田輝政(当時、播磨52万石)とのあいだに5男2女を産んでいて、子どもの出産状況からみても、天正三年生まれが妥当と判断できる(拙著『戦国大名・北条氏直』)。

黒田基樹『家康の正妻 築山殿』「次女督姫の誕生」(平凡社新書)

 享年41か、51か ── 41では若すぎると思われるかもしれないが、死因は疱瘡による病死なので、年齢を考慮する必要はない。

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