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邪馬台国について思いついたこと

■『豊前国風土記』「宮處郡」
古、天孫發於此、天降日向之舊都、蓋天照大神之神京。
(いにしへ 天孫、ここより発(た)ちて、日向の旧都に天降りましき。
けだし、天照大神の神京なり。)

「天孫は、豊前国宮処郡(福岡県京都郡)から出発して、日向国(宮崎県)の旧都に降臨した。豊前国宮処郡は天照大神の神京であろう」

「神が降臨した」=「神社を建てた」でしょうけど、日向国の神社といえば、

◉宮崎神宮(宮崎県宮崎市神宮)
・筑紫鎮守・建磐龍命の創建(神武天皇の孫・健磐龍命(たけいわたつのみこと)​が九州の長官に就任した際、祖父・神武天皇のご遺徳たたえるために鎮祭)。
・御祭神:神武天皇を主祭神とし、神武天皇の父神・鸕鷀草葺不合尊と神武天皇の母神・玉依姫命を配祀。
https://miyazakijingu.or.jp/

◉鵜戸神宮(宮崎県日南市大字宮浦)
・崇神天皇の御世、次の6柱の神を「六所権現」と称して創建。
・鸕鷀草葺不合尊を主祭神とし、相殿に大日孁貴(天照大神)、天忍穂耳尊、彦火瓊々杵尊、彦火々出見尊、神日本磐余彦尊(神武天皇)の5柱を祀る。主祭神・鸕鷀草葺不合尊の降誕の地とされ、陵墓とされる古墳もある。
https://www.udojingu.com/

くらいしか思い浮かびません。
 「日向国の旧都」と言われても、日向(日向市)、西都原(西都市)、高千穂(西臼杵郡高千穂町)くらいしか思い浮かびません。

 「天孫」とは、天照大神の孫・鸕鷀草葺不合尊のことですから、『豊前国風土記』の「天孫は、豊前国宮処郡(福岡県京都郡)から出発して、日向国(宮崎県)の旧都に降臨した。豊前国宮処郡は天照大神の神京であろう」は、「天孫・鸕鷀草葺不合尊は、豊前国宮処郡(福岡県京都郡)から出発して、生まれ故郷の日向国(宮崎県日南市)の鵜戸神宮に戻った。なぜ鸕鷀草葺不合尊が豊前国宮処郡にいたかといえば、豊前国宮処郡は天照大神の都だからであろう」という意味になるのでしょうか?

『魏志倭人伝』を読んでみた。
https://note.com/sz2020/n/n8369be637de1

「至邪馬壹國。女王之所都」

「邪馬壹国に至る。女王の都とする所也」

 「女王の都とする所也」という言い回しが気になった。「女王之在都」(女王の都あり)でいいのではないか? 「(30ヶ国ある倭国連合諸国から)女王が(占いで)都にした(選んだ)国」という意味か?
 私なら「女王が住む国也」とか、「女王が統治する国也」と書くけどね。

 ところで、「女王の都」というのは、「卑弥呼=邪馬壹国の女王」であって「女王の都=邪馬壹国の都」なのか、「卑弥呼=倭国の女王」であって「女王の都=倭国の都」なのか。それとも、「卑弥呼=邪馬壹国の女王=倭国の女王」であって「女王の都=邪馬壹国の都=倭国の都」なのか。

「都」・・・宮処郡!

だから、「女王が住む国」でも「女王が統治する国」でもなく、「女王の都とする所」としたのか!?

 『豊前国風土記』の「天孫は、豊前国宮処郡(福岡県京都郡)から出発して、日向国(宮崎県)の旧都に降臨した。豊前国宮処郡は天照大神の神京であろう」という文章は、「西都原(西都市)出身の卑弥呼(天照大神)は、倭国の女王として、邪馬台国(豊前国宮処郡一帯)にある都に入ったが、攻め込まれて、西都原(西都市)に逃げ戻った」と解釈できるのでは?

 思いつきです。証拠も確信もありません。

 あと、宇佐神宮の宮司家・辛島家の系図を見たら、普通の家の系図では長男(嫡男)の名が連なっているのですが、辛島家の系図では巫女(宇佐神宮の禰宜)の名が連なっていて、「卑弥呼─男王─台与」という邪馬台国の系図をちょっと思い出しました。卑弥呼は辛島氏の祖?

 ちなみに、卑弥呼との交信に成功した霊能力者によれば、卑弥呼は「宮殿は下関と纏向にあり、季節によって往復していた」と語ったそうです。言葉通り、纏向の宮殿は発見されましたが、下関の宮殿はまだですよね? 赤間神宮は、「壇ノ浦の戦い」後の創建ですし・・・。山口県下関市ではなく、福岡県京都郡で卑弥呼の宮殿が発見される?

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