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中国の歴史書『三国志』の「魏書」の「東夷伝」の「倭人」(通称『魏志倭人伝』)

・『三国志』の著者は、明の官吏・陳寿(233-297)です。
・魏(220-265)の建国は、220年です。
・『魏志倭人伝』とは、『三国志』の『魏書』の「巻三十 烏丸(うがん)・鮮卑(せんぴ)・東夷伝(とういでん)」(烏丸、鮮卑、夫余、高句麗、東沃沮、挹婁、濊、韓、倭人)の「東夷伝」(夫余以降の条)の「倭人」の条のことです。
・なぜ「倭」ではなく、「倭人」かというと、「倭人」が住む地は広く、その一部が「倭」(倭国)だからのようです。

・『魏志倭人伝』は、3世紀の日本列島を知ることができる史料です。『魏志倭人伝』によれば、倭国を治めていたのは、女王国・邪馬壹国(邪馬壱(やまいち)国、邪馬台(やまたい、やまと)国)の女王(親魏倭王)・卑弥呼(ひみこ、ひみか)であり、卑弥呼の死後、男王を立てると乱れたが、卑弥呼の宗女・壹與(壱与(いよ)、台与(たいよ、とよ))を女王とすると落ち着いたとあります。

・『魏志倭人伝』の次の倭国に関する文献というと、150年後の5世紀、義熙9年(413年)の倭讃(応神天皇とも、仁徳天皇とも)の朝貢の記事までありません。(この空白期間「空白の4世紀」を埋める史料としては「広開土王碑」があり、その碑文によれば、391年に倭国が百済国と新羅国を破り、高句麗国の第19代国王・広開土王(好太王)と戦ったそうです。『日本書紀』でいえば、応神天皇の母・神功皇后による「三韓征伐」の時期の同時代史料がないのです。)

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