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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第23回)「狩りと獲物」


「狩りと獲物」 ━━
・巻狩りと、源頼家が射止めた小鹿
・曽我兄弟の仇討ちと、工藤祐経
のダブルミーニングであろう。

 猪の鳴き声で始まった23回━━噂では全47回という。
 ターニングポイントである。
 源頼朝の全国制覇が終わり、息子(次期「鎌倉殿」・万寿)のためのお膳立て(粛清)が始まる。まずは・・・曽我兄弟の仇討ち。

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 手元の『吾妻鏡』(全772ページ)において、「承久の乱」はほぼ中央の437ページで、今回の「曽我兄弟の仇討ち」は296ページであるので、いいペースだと思う。

1.巻狩りと矢開


 「巻狩り」とは、本来は、里の田畑を荒す山の獣(鹿や猪)を退治し、その肉を山ノ神(矢口神)に捧げる狩猟神事である(弓矢で人を射殺すのが上手くなりたい場合は、弓矢八幡(八幡大神)に祈願する)が、源頼朝主催の「富士野の巻狩り」は、「大軍事演習」であり、「山ノ神に祝福された万寿のお披露目会」だという。万寿が獲物を射止められなければ、万寿は、源頼朝のように「天に選ばれた人間」「持ってる人」ではないということが証明されてしまう。

 天に向かって唾を吐くと、そのまま自分の顔に落ちてくるというが、万寿が天に向かって射た矢は、鳥ではなく、乳母夫・比企能員の脚に当たった。天に向かって矢を射るという行為は金剛の真似だろうけど、「なぜ自分は才能が無いのだ(天に選ばれた人間ではないのだ)」と天に怒りをぶつけるかのような行為はよろしくないし、天は「弓が下手なのは、才能ではなく、乳母夫の指導が悪いから」と答えたのであろう。万寿の欠点は、才能の有無ではなく、生まれつきひ弱で病弱なことである。それで、弓を強くひけないのであろう。実はまだ12歳で、大人が使う強弓は使えなかったであろうし。

 『鎌倉殿の13人』の巻狩りは、源頼朝の「富士の巻狩り」の手本となったとされる下野(阿蘇の五岳の西山麓の原野)の「下野狩神事」を参考にしている。(「下野狩神事」の史料は、永青文庫所蔵『下野狩日記』『下野狩旧記抜書』等をまとめて、『阿蘇下野狩史料』として出版されている。)

※飯沼賢司「『下野狩日記』『下野狩旧記抜書』の成立とその史料的価値」
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=5278

 源頼朝は、梶原景時を九州に派遣し、阿蘇神社(熊本県阿蘇市一の宮町宮地)の2月の初卯に行われていた「下野狩神事」の故実を学ばせている。長期間にわたったのか、阿蘇神社の近くに梶原景時屋敷跡がある。文治2年(1186年)9月、学び終えた梶原景時は、阿蘇大宮司を先導に、久住山で巻狩りをしようとしたが、久住山の持ち主である慈尊院(大分県竹田市久住町久住)は、「久住山は霊場(禁足地&狩猟禁止)である」と断わるも、源頼朝の威光と阿蘇大宮司の懇願により許可すると、多くの獲物を得た。殺生禁断の霊場を犯したことと、畜類供養のためとして、南山城(大分県竹田市久住町白丹)の城主からは寄付を受け、源頼朝からは「猪鹿狼寺」の名を賜ったというが、以上の話(猪鹿狼寺縁起)は「伝説」であり、実際は阿蘇神社の下田権大宮司が鎌倉へ行って教えたという。

※「猪鹿狼寺(いからじ)跡 」
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/kyushu/shrine/ikaraji/ikaraji.htm
※下田権大宮司:「下野狩神事」を仕切っていた西宮神社の神主も兼任。

■『阿蘇郡史』
鎌倉の右大将頼朝は、建久二年に富士野の牧狩をもよおすに先だち、特に使を阿蘇に遣わして、下野の狩の法式を問わせたり。当時、梶原景時、その使命を承りて下向し、阿蘇の東北なる久住山下に狩猟を実習したり、と称する猪鹿狼寺の縁起は、宮地の植木の原なる梶原屋敷の伝説とともに、全く信ずべからずと雖も、阿蘇よりは、下田権大宮司及光永某をして、狩猟の要具をもたらし、古来の方式を鎌倉に伝授せしめければ、右大将、賞し黄金造の太刀等贈りて、阿蘇家の好意を謝したりとぞ。

■角田政治編『阿蘇火山』
建久四年、源右大将頼朝、富士野に狩す。使を遣して古来相伝の下野狩の式法を問ふ。下田権大宮司をして、其体を伝へ、鏑矢百本と、行縢(むかはぎ)とを製して右大将に呈す。(光永家伝には当時光永某亦使命を奉じ鎌倉に赴く。右大将、賞して本国津守荘を賜ふと。未だ真偽を詳にせず。)右大将、賞して太刀一口を賜はると云ふ。

『吾妻鏡』での万寿は、巻狩りの初日、愛甲季隆のサポートで初めて鹿を射止めたという。(何頭射止めたは書かれていない。)

 『曽我物語』によれば、初日の成果が芳しくなかったので、2日目は2人組で狩りを行ったという。中央の嶽から勢子が鹿9頭を追い下し、右の岡(奉行:畠山重忠)と左の岳(奉行:和田義盛)から奉行の合図で馬に乗って駆け下りて射た。射漏らした鹿は、多数の御家人で射た。最初のお披露目は、万寿と畠山重忠の嫡男・畠山重保(14歳)が務め、2人とも3頭射止めた。(狩りは全部で20番行われた。)

・披露  左:万寿   3頭  右:畠山重保 3頭
・一番  左:愛甲季隆 3頭  右:本間次郎 3頭
・・・

 初めて獲物を射止めた時は、「矢開きの祝い」(「矢口祭」などともいう)を行う。この「矢開きの祝い」では、3人の射手が食べる9枚(3色(黒、赤、白)X各3枚)の「矢口餅」(北条義時が用意)と、参列者が食べる大量の「十字」(狩野宗茂(工藤茂光の子)が用意)が用意されました。神への供物といえば餅ですが、餅では堅くて食べられないので、「矢口餅」は餅菓子、「十字」は饅頭(祝い事では「万寿」)でしょう。

 「矢口餅」は、前回、北条政子と北条義時が食べていた小判型の白い餅菓子の大きな物です。「矢口餅」は、柏の葉を敷いた3本脚の折敷(おしき)の上に載せられるので、餡の無い柏餅と考えればよいでしょう。(柏の葉は、新しい葉(万寿)が出るまで、古い葉(源頼朝)が残ることから、子孫繁栄を願って使われます。)『鎌倉殿の13人』の「矢口餅」は切り揃えられていて、驚いた! こういう形の「矢口餅」を見たのは初めてである。文献でも見たことが無い。堅目の「ういろう(外郎)」のように見えた。
 作法は、「3ヶ所をかじり、矢叫び声をあげる」です。万寿は「おー」と叫んでいましたね。矢叫び声は口伝であり、音声資料は残されていません。秋田県のマタギの儀式での矢叫び声は、「ひゅー」という鏑矢が飛んでいく音を裏声で発します。(「おー」と大声を出すのは、神様に失礼です。)

 北条義時と金剛が縁側で食べたのが「十字」。「十字」は、蒸した餅の上に、十文字に切れ目を入れた蒸餅で、「十字」という呼称については、『晋書』(33)「何曾伝」に、何曾(かそう。199-278年。中国三国時代の魏&西晋の政治家)が、十文字に切れ目を入れてから食べた事に由来するとあり、李瀚『蒙求』には、何曽が参朝しても大膳所の物を食べないので、帝がその携帯食を取上げると、蒸餅であったとある。グルメの何曾には、宮殿の食事はまずく、自家製のおいしい蒸餅を持参して食べていたのである。これを『貞丈雜記』では「十文字に切れ目を入れて、食べやすくしてから食べた」、『喜遊笑覧』では「十文字に切れ目を入れて、皮を剥いて「おぼろ饅頭」にしてから食べた。「栄曜に餅の皮をむく」(奢るさまのたとえ)の由来」と解釈している。(『鎌倉殿の13人』の「十字」の形状は、肉の無い肉饅のようにも見えた。)

■『貞丈雜記』(巻之六)「飮食之部 十字之事」
一 十字(じうし)と云は、餅(もち)のこと也。『東鑑』に「賜十字」、又「供十字」、又「食十字」などゝあるは、何も餅の異名也。昔、晋朝に何曽(かそ)と云人、字は頴孝(えいかう)と云。此人、親に孝行にて行儀正しき人なりしが、奢侈者にて衣服、諸道具、飮食、皆、花麗を盡せり。蒸餅(しやうべい)を食するに、蒸餅の上に拆(さい)て、十字を作(なさ)ざれば、食(くは)ざりしと也。此故事を以て、餅を「十字」と云也。「拆て十字を作(なす)」とは、餅の上に小刀めを十文字に入て、くひよき樣にしたゝめたるをいふ也。右、何曽がことは『晋書』第十三卷めにみえたり。『蒙求』にもみえたり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2583444/24
■『喜遊笑覧』(10上)「飲食」
 『東鑑』に「十字」とあるものは饅頭なり。『晋書』「何曽、性奢豪、務在華侈云々。蒸餅上不拆作十字不食」。これを奢れる故事にいへり。こゝには「栄曜に餅の皮をむく」ともいへり。今、「おぼろまんぢう」といふは、上の皮おむきたるなり。是等は物の数ならず、えもいはれぬ美食、費を顧みざるもの枚挙しがたし。是を何とかいはむ。「十字」は、蒸て拆たるをいふ。

※「「饅頭」考 -「矢口祭」の「十字」- 」
https://note.com/sz2020/n/nc7a34e9b5fbe

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 さて、上は、万寿の「矢開きの祝い」の一の口を務める弓の名手・工藤景光の姿である。
 北条義時は、黒の矢口餅3枚を左、赤の矢口餅3枚を中央、白の矢口餅3枚を右に置いた。この矢口餅の大きさは、長さ8寸(24cm)、幅3寸、厚さ1寸であった。(「矢開きの祝い」は屋外で行うものであるので、安定する3本脚の折敷が3つ必要であるが、『鎌倉殿の13人』では、屋内で、茶懐石料理「八寸」用の8寸四方の杉のへぎ木地の角盆を使っているように見える。)
 二の口は弓の名手・愛甲季隆が務め、三の口は曽我兄弟の養父・曾我助信が務めた。(『鎌倉殿の13人』のように万寿は務めていない。)三の口は、「私には似合わない大役であるので、万寿様が行い下さい」と一旦は断り、「そなたに任す」と大任を譲られてから矢口餅を食べるのが作法なのであるが、曾我助信は作法を知らないのか、何も言わず、すぐに食べたので、源頼朝は不機嫌になったという。『吾妻鏡』の謎は、矢口餅を3セット用意し、一の口を務めた工藤景光が1セットを「山ノ神の分」だとして、倒木の上に置いていることである。つまり、二の口・愛甲季隆の分の矢口餅はあるが、三の口・曾我助信の分の矢口餅がなくなってしまったのでは?

■『吾妻鏡』「建久4年(1193年)5月16日」条
先、景光依召參進、蹲居取白餠置中、取赤置右方。其後、三色、各一取重之(黒上。赤中。白下)置于座左臥木之上、是供山神云々。次、又、如先三色重之、三口食之(始中。次左廉。次右廉)發矢叫聲。太微音也。

(まず、工藤景光が呼ばれて前へ出て、蹲踞(そんきょ)の姿勢で右に置かれた白い矢口餅を手に取って中央に置き、中央の赤い矢口餅を右側に置いた。(要するに、赤と白の矢口餅を入れ替えた。)その後、3色各1個、手に取って重ね(黒が上、赤が中央、白が下。赤と白の矢口餅を入れ替えなければ、右から順に取っていけばいいので、楽なのだが)、座っている左側の倒木の上に置いた。これは山ノ神に供える分だという。次に、また、先と同じ順(黒が上、赤が中央、白が下)に3色の矢口餅を重ね、3回これをかじって(最初は中央、次は左の角、次は右の角)、矢叫び声を発した。その声は、(戦闘の時の矢叫び声のような大声では山ノ神に失礼なので、裏声を使って「ひゅー」と)静かな声であった。)

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一 矢開事
餅ゐのかす九。三つゝ三をしきに置くへし。餅の勢、一尺二寸(一尺にも用也)、ひろさ四寸、あつさ一寸二分。をしきのうへには、ほう、かしはの葉をしくへし。

(餅の数は(3色各3枚で)9枚。(色分けして)3枚ずつ3脚の折敷に置きなさい。餅の(形は小判型で)大きさは、(最も長い部分の)長さ1尺2寸(36.4cm)(1尺(30.3cm)のも用いることがある)、(最も広い部分の)幅4寸(12.1cm)、厚さ1寸2分(4.6cm)である。折敷の上には、朴か柏の葉を敷きなさい。)

(注)この本では『吾妻鏡』に書いてある作法(矢口餅の大きさ)とは異なる。また、3本脚の折敷が3台ではなく、1台である。このように、作法は、流派によって異なる。とはいえ、小笠原流弓術書でも、武田流弓術書でも、矢口餅は小判型であり、『鎌倉殿の13人』のように直方体の「矢口餅」を見たのは初めてである。矢開のように作法が文献にきちんと書かれているものについては、神事だけに、きちんと作法に従った方がよかよう。(「矢開きの祝い」は大正時代までは行われたようですが、現在の狩猟では、鉄砲を使うので、行われないようです。ジビエ好きです。)

2.曽我兄弟の仇討ち


私の「曽我兄弟の仇討ち」の理解は、
①父親の仇・工藤祐経の居場所を探す兄・曽我十郎祐成は、工藤祐経に見つかり、工藤祐経に「ことの発端は、お前たち兄弟の祖父・伊東祐親による伊東荘の横領である」と説教された。
②兄・曽我十郎祐成は、弟・曽我五郎時致と連れて、工藤祐経の居場所に戻るが、工藤祐経はいなかった。
③白拍子(手越宿の少将&黄瀬川宿の亀鶴)と添い寝していた工藤祐経を探し出して討ち果たし、おたけびをあげた。
④騒ぎとなって御家人たちと斬り合い、9人倒すが、兄・曽我十郎祐成は、10人目の仁田忠常に討たれた(10番切)。
⑤弟・曽我五郎時致は、女装した怪童・五郎丸によって捕らえられた。
⑥翌日、弟・曽我五郎時致は、源頼朝の尋問を受け、処刑された。
⑦鎌倉には「源頼朝が討たれた」と伝わった。
であり、不思議なのは③と⑦である。手越宿の少将も、黄瀬川宿の亀鶴も、超有名な白拍子で、源頼朝の超お気に入りの美少女である。この2人と共に寝られるのは、源頼朝だけのはずであり、工藤祐経では無理のはずである。
 『鎌倉殿の13人』では、源頼朝を暗殺しようと寝所に忍び込んで討ったところ、源頼朝だと思って討ったのは、安達盛長の目を欺くために身代わりとなった工藤祐経であり、天に選ばれた源頼朝は、比奈(姫の前)の所に夜這いに行って助かった。弟・曽我五郎時致は工藤祐経の首を切った。首の無い死体を見て「鎌倉殿が…」と泣く仁田忠常を見て、首を確認しないまま、鎌倉には「源頼朝が討たれた」と速報が届けられたとする。
 また、④についても、「2人だけで、源頼朝を警護する優秀な武将を斬れるのか?」と思っていたが、『鎌倉殿の13人』では、「烏帽子親・北条時政の家人を『仇討ちのため』と偽って借りた」と処理をしていた。
━━上手い!!
と唸ったが、冷静になって考えてみると、
「なぜここに比奈がいるの?」
と思った。北条政子は鎌倉にいるのに、なぜ?
 御家人たちの旅館には手越宿や黄瀬川宿から白拍子がわんさか押しかけ、臨時に管理、配分する奉行が置かれたほどである。御家人たちは、昼は、自分の弓術の腕を披露し、夜は、羽目をはずして白拍子と楽しんだわけで、妻や娘など、女性を伴う旅ではなかった。(「富士野の巻狩り」が、「見世物」であれば女性同伴であろうが、建前は女人禁制の「大軍事演習」なのであろう。)比奈が源頼朝に呼ばれて、白拍子姿で、そこにいたという設定にすれば、完璧な脚本になったと思う。(個人的には弟・曽我五郎時致に会った時の畠山重忠の台詞「ついに現れたか」が気に入らなかったけどね。もっと「待ちくたびれたぞ」(おまえの企てはまるっとお見通しだ)ってマウントとる台詞の方がよかった。)

・第22回「義時の生きる道」-曽我兄弟の仇討ち(前編)-(2022/6/  5)
・第23回「狩りと獲物」  -曽我兄弟の仇討ち(後編)-(2022/6/12)

【関連記事】

※富士の巻狩り(1/6)「巻狩りの準備」
https://note.com/sz2020/n/na439548cc8e5
※富士の巻狩り(2/6)「富士の巻狩り」   5月15日、富士野に到着
https://note.com/sz2020/n/n8cb7e369ef6e
※富士の巻狩り(3/6)「源頼家の矢口祭」       5月16日
https://note.com/sz2020/n/n22f426d313ec
※富士の巻狩り(4/6)「山ノ神の出現」   5月27日
https://note.com/sz2020/n/na61432d2a733
※富士の巻狩り(5/6)「曽我兄弟の仇討ち」 5月28日
https://note.com/sz2020/n/n42a499d7419d
※富士の巻狩り(6/6)「鎌倉に帰還」    6月  7日、鎌倉に帰還
https://note.com/sz2020/n/ncd0b1093ed68

※「曽我兄弟の仇討ち」の真相
https://note.com/sz2020/n/nfd33396618a1
※「曽我兄弟の仇討ち」解説動画集
https://note.com/sz2020/n/nb90c166e5edf


▲北条時政の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

北条四郎時政┬長男・三郎宗時    (片岡愛之助)  :母・伊東祐親の娘
(坂東彌十郎) ├長女・政子=源頼朝室 (小池栄子)   :母・伊東祐親の娘
      ├次男・江間小四郎義時 (小栗旬)       :母・伊東祐親の娘
      ├次女・実衣=阿野全成室(宮澤エマ)   :母・伊東祐親の娘
      ├三女・ちえ=畠山重忠室(福田愛依)   :母・?
      ├四女・あき=稲毛重成室(尾碕真花)   :母・?
      ├三男・五郎時連→時房 (瀬戸康史)      :母・?
      ├?女・?=平賀朝雅室 (?):母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=滋野井実宣妻(?):母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=宇都宮頼綱室(?):母・りく=牧宗親の妹
      ├四男・遠江左馬助政範 (?):母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=坊門忠清室(?):母・不明
      ├?女・?=河野通信室(?):母・不明
      └?女・?=大岡時親(牧宗親の子)室(?):母・不明

源頼朝の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

源頼朝──┬千鶴【溺死】   (太田恵晴)   :母・八重=伊東祐親の娘
(大泉洋)   ├長女・一幡(大姫)(南沙良)    :母・政子=北条時政の娘
      ├長男・万寿→頼家 (金子大地)   :母・政子=北条時政の娘
      ├能寛→貞暁    (?)           :母・?=常陸念西の娘
      ├次女・三幡(乙姫)(?)      :母・政子=北条時政の娘
      └次男・千幡→実朝 (柿澤勇人)   :母・政子=北条時政の娘

▲【第七次】大河ドラマ「鎌倉殿の13人」新たな出演者

・後鳥羽上皇の側近・源仲章を生田斗真
・朝廷の実力者・土御門通親を関智一
・中世きっての名僧・慈円を山寺宏一
・北条義時の“第三の妻”のえを菊地凛子
・時政とりくの娘婿・平賀朝雅を山中崇
・北条泰時の妻・初を福地桃子
・政子と対決する大政治家・藤原兼子をシルビア・グラブ
・源頼家の側室・せつを山谷花純
・源頼家の正室・つつじを北香那
・善児に育てられた孤児・トウを山本千尋
https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=34525

▲「13人の合議制」のメンバー

○政所&問注所:文官
【政策担当】①中原(1216年以降「大江」)広元  (栗原英雄)
【外務担当】②中原親能              (川島潤哉)
【財務担当】③二階堂行政             (野仲イサオ)
【訴訟担当】④三善康信              (小林隆)

○侍所:武官(宿老、有力御家人)
⑤【梶原派】梶原平三景時 (中村獅童)
⑥【北条派】足立遠元   (大野泰広)
⑦【比企派】安達藤九郎盛長(野添義弘)
⑧【比企派】八田知家   (市原隼人)    
⑨【比企派】比企能員   (佐藤二朗)
⑩【北条派】北条四郎時政(坂東彌十郎)
⑪【中立派】北条小四郎義時 (小栗旬)
⑫【北条派】三浦義澄     (佐藤B作)
⑬【北条派】和田小太郎義盛(横田栄司)

▲NHK公式サイト『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

▲参考記事

・サライ 「鎌倉殿の13人に関する記事」
https://serai.jp/thirteen
呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』」
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065261057
・富士市 「ある担当者のつぶやき」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kamakuradono-fuji.html
・渡邊大門「深読み「鎌倉殿の13人」」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon
・Yusuke Santama Yamanaka 「『鎌倉殿の13人』の捌き方」
https://note.com/santama0202/m/md4e0f1a32d37
・刀猫    「史料で見る鎌倉殿の13人」
https://note.com/k_neko_al/m/m0f7e5011a2ac

▲参考文献

・安田元久 『人物叢書 北条義時』 (吉川弘文館)       1986/  3/  1
・元木泰雄 『源頼朝』       (中公新書)           2019/  1/18
・岡田清一 『日本評伝選 北条義時』(ミネルヴァ書房)2019/  4/11
・濱田浩一郎『北条義時』      (星海社新書)       2021/  6/25
・坂井孝一 『鎌倉殿と執権北条氏』 (NHK出版新書)   2021/  9/10
・呉座勇一 『頼朝と義時』     (講談社現代新書)2021/11/17
・岩田慎平 『北条義時』      (中公新書)           2021/12/21
・山本みなみ『史伝 北条義時』   (小学館)               2021/12/23
・山本みなみ『史伝 北条政子』   (NHK出版新書)    2022/  5/10


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