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邪馬台国論争

「邪馬台国論争」とは、『魏志倭人伝』に載っている
①「邪馬台国」はどこにあったか?
②邪馬台国の女王・卑弥呼はどんな人物であったか?
という論争です。

関連記事①:原文&現代語訳『魏志倭人伝』
https://note.com/sz2020/n/n8369be637de1
関連記事②:卑弥呼の人物比定12説
https://note.com/sz2020/n/n5e2c30612f5d

①「邪馬台国」はどこにあったか?


「邪馬台国」の位置については、100説以上ありますが、「九州説」と「畿内説」に絞られてきています。

・「九州説」:卑弥呼の時代=3世紀の日本は1つにまとまっておらず、九州の倭国、山陰の出雲国、瀬戸内の吉備国などがあった。邪馬台国は、九州の小国30ヶ国からなる「倭国(連合国)」の1つの国である。

・「畿内説」:卑弥呼の時代=3世紀の「倭国」は、関東から朝鮮半島南部「伽耶」までの広大な国で、首都は邪馬台国があった奈良盆地の纒向にあった。

・『魏志倭人伝』:邪馬台国は、九州の南方にあった。呉の東の海上に当たる。ここに「親魏倭王」がいるということは、呉にとっては脅威であろう。
(あせった呉王は、宇佐神宮に呉橋を寄贈したという。)

②邪馬台国の女王・卑弥呼はどんな人物であったか?


 女王にして巫(ふ、かんなぎ)だったという。また、30ヶ国から成る「倭国」のまとめ役で、カリスマ性もあったという。
 『魏志倭人伝』に「事鬼道能惑衆」(鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす)とあるが、これは中国人の見解であり、実際は、「巫でもあり、大衆を1つにまとめるカリスマ性があった」という。30ヶ国の首長が集まる会議で言い争いになっても、まとめ役の卑弥呼に「神は・・・と告げられました」と言われたら、神のお告げに従うしか無い気がする。また、卑弥呼には自主的に集まった1000人の侍女がいたと『魏志倭人伝』にあるが、「人質」とまでは言えないにしても、30ヶ国の首長は、娘を差し出していたのではないだろうか。

まとめ


 纒向遺跡からは全国各地の土器が出土している。纒向が首都であったことは間違いないが、問題は、纒向が「倭国の首都(邪馬台国)なのか」(畿内説)、「倭国とは別の日本国の首都なのか」(九州説)ということである。
 「日本国」は、ニギハヤヒ(出雲国のスサノオの子)が、北九州の物部氏を率いて畿内に建国した国である。(「古代では末子相続であったので、スサノオの末子・スセリ姫と結婚した大国主命が出雲国を相続し、ニギハヤヒは、卑弥呼の死に乗じて北九州に攻め込み(もしくは、北九州の邪馬台国にいた卑弥呼を日向国の西都原に南下(疎開)させ)、物部氏と手を組んで、瀬戸内海を東に進み、吉備にも協力してもらって畿内に「日本国」(物部王朝)を建てた。その後、倭国や出雲国が併合されて「大和」と名乗ったが、天武&持統天皇が国号を「日本」とし、『日本書紀』を編纂させた」というのが神社考古学の見解である。)

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