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『乙夜之書物』と『政春古兵談』

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加賀藩の兵学者・関屋政春が収集した武辺噺集『乙夜之書物』『政春古兵談』に関するあれこれ
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#乙夜之書物

縁側で首を切るコツ at 本能寺(『乙夜之書物』)

縁側で首を切るコツ at 本能寺(『乙夜之書物』)



■関屋政春『乙夜之書物』
一、御番衆、随分働といゑども、思いよらぬ事なれば、何(いずれ)も素肌にて僅かの人数。敵は具足、甲を着、弓、槍、鉄砲を備えて大勢で攻め込む。終に縁の上ゑ追い上げ、突き伏せ、切り伏せ、首をとる。去れども、何としても首落ちず。其の時(後略)。

【意訳】「本能寺の変」において、御番衆(宿直の警備兵)はよく戦ったが、不意打ち(夜明けと同時の奇襲)であったので、皆、武装しておら

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「光秀折檻事件」(『政春古兵談』と『乙夜之書物』)

「光秀折檻事件」(『政春古兵談』と『乙夜之書物』)

斎藤利三は、

 ──今度謀反随一也。(『言継卿記』天正10年6月17日条)
 ──かれなと信長打談合衆也。(『天正十年夏記』天正10年6月17日条)

と言われた人物である。「信長打(信長討ち)」(織田信長殺人事件)の主犯は明智光秀、実行犯は彼の家臣たち(中心は丹波衆)で、最重要人物は斎藤利三だというのである。斎藤利三は明智家の家臣をまとめる家老であるから最重要人物なのであろうが、山科言継が、な

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『乙夜之書物(いつやのかきもの)』にみる「本能寺の変」

『乙夜之書物(いつやのかきもの)』にみる「本能寺の変」

「私が住む富山市には江戸時代に宥照寺という寺があり、光秀を祀る塚と墓が築かれていた。寺は明治時代に廃絶し、いまは跡形もないが、光秀重臣の明智左馬助の兄弟が住職だったため、光秀の塚を築いて供養したと伝わる。私がこの光秀塚について調べていた矢先に出くわしたのが、「乙夜之書物」の記述だった」(萩原大輔氏談)

※宥照寺(富山市辰巳町)の光秀塚:当時の住職が明智光秀の兄だという。(出典『越中奇談集』)

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