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『乙夜之書物』と『政春古兵談』

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加賀藩の兵学者・関屋政春が収集した武辺噺集『乙夜之書物』『政春古兵談』に関するあれこれ
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2021年2月の記事一覧

縁側で首を切るコツ at 本能寺(『乙夜之書物』)

縁側で首を切るコツ at 本能寺(『乙夜之書物』)



■関屋政春『乙夜之書物』
一、御番衆、随分働といゑども、思いよらぬ事なれば、何(いずれ)も素肌にて僅かの人数。敵は具足、甲を着、弓、槍、鉄砲を備えて大勢で攻め込む。終に縁の上ゑ追い上げ、突き伏せ、切り伏せ、首をとる。去れども、何としても首落ちず。其の時(後略)。

【意訳】「本能寺の変」において、御番衆(宿直の警備兵)はよく戦ったが、不意打ち(夜明けと同時の奇襲)であったので、皆、武装しておら

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明智弥平次≠明智左馬助別人説

明智弥平次≠明智左馬助別人説

1.通説(同一人物説) 三宅(明智)弥平次と明智左馬助は同一人物で、明智光秀の叔父・明智光安の子である。

 弘治2年(1556年)9月26日の明智長山城の落城の際に自害した明智光安は、子・岩千代(後の明智光春)を明智光秀に託したという。明智長山城からの脱出に成功した明智光秀一行は、桂郷谷汲村に住む叔父・山岸光信(実は明智光秀の父・明智光綱の弟で、山岸家に養子に出された)を頼り、明智光秀は、妻子や

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『乙夜之書物(いつやのかきもの)』にみる「本能寺の変」

『乙夜之書物(いつやのかきもの)』にみる「本能寺の変」

「私が住む富山市には江戸時代に宥照寺という寺があり、光秀を祀る塚と墓が築かれていた。寺は明治時代に廃絶し、いまは跡形もないが、光秀重臣の明智左馬助の兄弟が住職だったため、光秀の塚を築いて供養したと伝わる。私がこの光秀塚について調べていた矢先に出くわしたのが、「乙夜之書物」の記述だった」(萩原大輔氏談)

※宥照寺(富山市辰巳町)の光秀塚:当時の住職が明智光秀の兄だという。(出典『越中奇談集』)

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