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承認欲求のこと

 何かnoteを書こうと思ってからきっかり42分経った。これは洗濯機に洗濯物を放り込み洗剤を注ぎ入れふたを閉めてから、洗濯機が「できたよ」というまでの時間である。

 そのあいだ私は書く「こと」を探して、タイトル欄に「たぬき」だの「青磁」だの「にどと夢に出てくるな」だのと書いては、このタイトルで何も書けやしないやとバックスペースキーを連打し続けていた。書きたいのに書く「こと」がない。普通逆だ。

 「想像力が満ち満ちているから」とか「書くことがたくさんあるから」ではなくて、「書かないとなんとなく居心地が悪くて据わりが悪い」ので、私は「書く『こと』を無理やり捻出する」というスタイルをとっている。
 要するになんか書いてないとソワソワしてふわふわするのである。すごいとかすごくないとか、そういう尺度ではなく単純になんかちょっと変なのだと思う。文字を打ち続けていないとなんか……嫌!

 そして洗濯物を干している間に思いついた。タイトルの通りである。

 他人に承認されようが自分が承認できなきゃ意味がないんだよなって思う。私はどれだけ褒められても自分が自分を一番認めていないので、何らかの形になってこないと実感も伴わないし、自分に対して「よくやったな」と思うこともない。
 言ってしまえば、こうやって自分で意味もなく書くこともないのに書くことを探してるあたりが私の承認欲求だなと思う。ほかでもない、自分に対してお伺いを立てているにすぎない。「今日も文章を書いたからどうか自分のことを許してやって欲しい」って。

 自分で自分のことを許せない人のための承認欲求というのは、もはや自分で壁に向かって無限にボールを放ち無限に打ち返すしかない。だって自分が一番認められないんだから、自分の頑張りも、自分のやってきたことも、そこに「ある」ものでしか。逆に言うとそういう人は、自分のことを認めることができるのは自分だけなのだ。当然のことだけど。
 他人に褒められて有頂天になるくらいが健全かもしれない。私の場合、「気を遣わせてしまったかもしれない」とか「大目にみてもらってる」とか余計な考えを巡らせてしまうので、正直本や作品の感想は「ここが意味不明」とか一つ否定を挟んでもらえると安心する。なぜなら、そういう習性だから。

 手を動かしているうちは欲求の重力から逃れることができる。作業をしている事実が私を解放してくれる。ちょっと意味わかんないと思います。私も意味わかんないなと思います。

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