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日記:黒いもや。ラジオ。気楽。

 僕は幼い頃からの習慣で比較的、信仰心というものが強い。これは迷信も含まれている。夜にはヘビが来るから口笛を吹かないとか。
 また、信じる信じないではなく、単純に怪談や心霊現象について知るのも好きだった。過去形なのは流石にこの頃も熱心に世界中の最新報告を追っているなどという訳ではないから。
 それでも数年前に稲川淳二さんの怪談を聞きに行ったことはあるので、なんとなく身近なモノではあり続けているのだろう。

 そんな僕が、ここ数週間で一二回程度の頻度で、誰もいるはずのない場所で、黒い影を見たように錯覚しがち。
 そう、錯覚だ。そこには誰も・何もいない。
 たとえばそれは天井付近だったりする。すると、ふつうの人間はいない。ちなみにストーカー説はない。全く別の場所での体験が遠間隔で続いているから。となると、やはり錯覚。
 
 それともまさか、幽霊だとでもいうのだろうか。個人的には害がないし、体調の悪化などもない。低気圧には弱くなった気がするが、そこに因果関係も相関関係もない。
 むしろ、幽霊よりも何らかの認知機能の異常だった方が怖ろしいくらいだ。だが、謎の気配の他には何の問題もない。であれば、少しずつこの記憶も消えていくだろう。
 
 日常には単なる偶然が重なることがある。
 偶然は必然、という考えもあるにはあるが。薄っぺらい自己啓発だけでなく、たとえば「ラプラスの悪魔」という数学上の思考実験のようなものも、その可能性を示唆する。量子力学などもそういった内容を扱っていると思う。

主に近世・近代の物理学分野で、因果律に基づいて未来の決定性を論じる時に仮想された超越的存在の概念。
「ある時点において作用している全ての力学的・物理的な状態を完全に把握・解析する能力を持つがゆえに、未来を含む宇宙の全運動までも確定的に知りえるという超人間的知性のこと。
フランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラスによって提唱された。

Wikipedia「ラプラスの悪魔」より

 しかし、それはあくまでも数理論・物理学・確率の世界。我々の日常にとっては、こうして話のタネになるにはなるが、やはり偶然は偶然。やがては忘れていく些末な記憶。
 こんなことを、人生の陰りであるように語りだすのは重苦しい文学だけで、およそ日常においては、そんなこともあるよね、で済んでしまう。
 とどのつまり、何に悩み、何を気にしかないかなどは、その時々の状態や環境、あるいは個々人のこだわりに過ぎず、気楽に文章化しておくに限るのではないだろうか。

 近頃はラジオを聴く機会が増えている。様々な相談やリクエストなどを、特に集中せず聞き流す。中にはラジオパーソナリティが何度も噛むことだってあったりする。それすらも肯定しようではないか。
 聞くべき話、悩まないといけない事など、元から決まっているわけではなく、そう判断した際にようやく分類分けされる程度のこと。

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