移動祝祭日を読んで
本屋で「移動祝祭日」をみるたびに「いっつも思うけどなんの話なんだろう」と思っていた。ヘミングウェイの長編を3つ(日はまた昇る・武器よさらば・誰がために鐘は鳴る)を読んで、次のヘミングウェイは何にしようかと考えていた。ヘミングウェイを読んだ後はその満足感でしばらくいいやと思うのだが、間を置くとあの簡潔で素直な文章の羅列が読みたい、それ以外のどの作家も読みたくないと思ってくるのが常である。アマゾンで移動祝祭日の内容を見てみる。「ヘミングウェイがまだデビュー仕立ての新人作家の頃、パリで見た景色」的なことが書いてあった。その時のワクワクは計り知れない。特定の作家をある程度好きになった後で読むその自伝的エッセイというのは読書の最大の楽しみかもしれない。もちろん好きな作家の新作とか、まだ読んでない名作とかを持ってレジに並ぶ時も楽しい。でも自伝的エッセイは第一に肩の力を抜いて読めるし、どうやって小説のアイデアを出しているのかという攻略本的な面もあるので勉強になる。そんなわけでこの「移動祝祭日」は読み終えるのが勿体無いくらいだった。
「日また昇る」はほとんど自伝だが、この「移動祝祭日」を読むと、本当に毎日見た景色とか友達との会話を走り書きしただけの小説なんだなあと再確認できた。そんな本がこれだけの人気を得るのだから、小説に必要なのは書き続けるモチベーションなんだとはっきりわかる。エッセイとわかっていながらも、冒頭のカフェの描写からすでにテンションが上がる。よく、名作は記憶を消してもう一度読みたい(観たい)なんて言う。この本は「日はまた昇る」の別Verみたいなものなので、ある意味記憶を消してもう一度読むのと同じだ。紀伊国屋で買って電車ですぐに読み始めた。
後半のスコット・フィッツジェラルドの印象部分は興味深い。フィッツジェラルドは僕にとってもちろんアメリカの有名作家で、友達目線になることなんてできない。グレート・ギャツビイはすごく面白かったけど、あの本によって僕の中でのフィッツジェラルドに対するイメージは「文章があまりにも優雅で滑稽味がない」になってしまった。それがこの「移動祝祭日」によって覆された。ヘミングウェイはフィッツジェラルドのことを背が小さい気取った作家として認識している。面白い本を書くことを認めてはいるが、おしゃべりのナルシストな同期の作家という目線で見ている。それだけでもこの本を買ってよかったと思えた。フィッツジェラルドの短編も早く読みたくなったし、名前すら聞いたことなかったヘミングウェイの知り合いの作家も読んでみたい。
長編→長編→短編→長編→エッセイ→長編→・・・このサイクルにぴったりとハマると、読みたい本がないなんていう状況にはまずならない。ヘミングウェイみたいに半分好感度で本を買っている、みたいな作家をもっと増やしていきたい
42分 1100文字
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