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幻想と情景の文学『歩く』

 少女は春のうららかな日差しによって目を覚ました。
 優しい光が瞼を気持ちよく開かせる。視界は白くぼやけるが、眼前は広く、どこかの高台らしかった。遠くの山々の輪郭と、太陽であろう光源がうっすらと映る。

 下を見遣ると、辺り一帯に白く霞が敷かれていた。霞の下は落ち窪んだ緑色のグラデーションで、その中にくねくねとした土色が見える。

 くねくねが段々と消えていく。それがたくさんの人々の頭に塗り潰されているのだと気づく頃には、ザワザワと声らしきものも微かに聞こえ始めた。
 人々が列を成して歩くその山道は、少女のいる高台の真下を通り更に左手に伸びている。登った先には石の鳥居と、色褪せてはいるが大きなお社があった。どうやらさっきの人々はあの神社にお参りする人たちだ。少女は思った。

 にわかに風が吹く。
 辺りの霞が流れ、お社に被さって屋根の上まで舞い立ち上がる。
 霞は空と日光に混ざり合い、薄紫の衣となった。
 そして、それを纏うように、巨大な女性がぼんやりと姿を現した。匂い立つような微笑みを携え、頭に金色の飾りをつけている。

 お姫様だ。少女は思った。

 ザワザワという音が耳に届く。
 例の人々の列が高台の真下を通り過ぎていく。
 先頭が鳥居をくぐった後も列は途切れることはなく、やがて神社に上る列と下る列に分かれた。
 人々は相変わらずザワザワと音を立てている。ただ、どうやらそれは話し声ではなかった。それほどにくぐもった、ささやかな音であった。
 少女が意識を凝らすと、やはりいくつか、言葉のようなものが聞こえるような気がした。
「疲れたなぁ」
「何をお願いしよう」
「ご利益あるかな」
「帰りに何を食べよう」
 お社の屋根に座したままの巨大な姫は、そんな人々をただ見つめていた。

 お社の中から大きな音が聞こえた。少女は驚いて視線を落とす。
 スーツを着た体格のいい男性が、足早に道を下ってくる。
 彼は高台の真下で立ち止まると、バッとこちらを見て両手を合わせた。
「仕事が成功しますように!」

 先ほどの音の主は彼だと確信した。
 少女は嬉しくなった。
 それは今日初めて聞いた、はっきりとした人の言葉だった。
 だが同時に困ってしまった。そんなことを私に言われても、と思った。

 太陽が山の陰に隠れる頃、神社の姫は珊瑚色の空に長い黒髪の跡を残して消えていった。
 月のみが照らす夜の山はなんとも物悲しかった。人の列は疾うになくなっていた。
 少女はキョロキョロ周りを見渡す。参道を目で追っていると、ほとりに菫の花が咲いているのを見つけた。紫色の小さな花弁を眺めていると、少し気持ちが穏やかになった。
 心なしか景色も明るくなった気がし、再び漫ろ目になる。

 不意に、参道の至るところに人が横たわっているのが見えた。
 帰れなかったのかな、と案じた。
 だがよく目を凝らしてみるとその中の誰も、今日見た顔の人はいなかった。
 明日来る人たちなんだ、と気づいた。もう気持ちはお参りに来ているんだな。そう得心し、人の子らの寝顔を眺めた。

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