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「カッコいい」とは何か

当たり前のように使われている「カッコいい」という概念が何なのかについて考えてみる。

この本をみたとき、タイトルの珍しさに気をひかれた。そして手にとって見てみると、いかに生きるべきかを考えること」「人間にポジティヴな活動を促す大きな力」など大袈裟では?(笑)と思いながらも、どんな内容なのかまったく想像がつかず、興味を持ってしまった。こういうときは直感に従い、買ってみよう!と、いざ手にとって、レジに持って行くときには少し恥ずかしい気持ちもありましたが(笑)、今は自信を持って読んで良かったと思える本です!今回はこの本の主題である、3章「しびれる」という体感 について主に扱っていきたいと思います。とりあえず、このブログだけ読んで欲しいです。そして興味がわいたらぜひ、本を買って読んでみてください!



「カッコいい」という言葉の難しさ

一般にみなさんがイメージされる「カッコいい」とは、「格好がいい」だと思います。見た目が良い、イケメンなどと同義で使うことができます。しかし、よくよく考えると、「カッコいい」はあらゆる分野に使われています。音楽、ファッション、自動車、映画、建築、スポーツなどなど。


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この写真、カッコいいよね!?」みたいに。



私たちは「カッコいい」とはどういうことかよくわかっているはずだが、概念を定義しようとするととても難しい。人によって何を「カッコいい」と捉えるかには違いがあるし、同じものであっても状況によって「カッコいい」か「ダサい」のかは変わってくる。例えば、ブランドのロゴが、胸に大きくプリントされたTシャツ。これが「カッコいい」のか「ダサい」のか議論することを想像すると、定義の難しさがわかるのではないだろうか。ブランド名、着る人の特徴、場面、Tシャツの特徴などいろいろな要素を基に「カッコいい」か「ダサい」かを判断しているはずである。



「しびれる」という体感

筆者は「カッコいい」と「格好が良い」の大きな違いに、「しびれる」ような体感の有無をあげている。つまり、「カッコいい」存在とは、私たちに「しびれ」を体感させてくれる人や物であると筆者は定義している。この定義によって、大谷翔平とフェラーリとマイケル・ジャクソンを同一線上で比較することが可能になる。「しびれ」とはどういうことなのか?きっと徐々に理解できると思います。

例えば、マイケル・ジャクソン、レアル・マドリードなど「カッコいい」とされるものには必ず熱烈なファンが存在している。あなたが「カッコいい」と思うものをイメージしてください。

私たちの「カッコいい」人への支持は熱烈で、嘘偽りがなく、拍手や歓声は、心の底からの感動に衝き動かされている。なぜそう言い切れるのか?それは、作為的なことではなく、体が自然と反応しているからである。私たちは誰も、演技で鳥肌を立たせることは出来ないのである。

頭で冷静に、~が良い!や、~が素晴らしい!と判断しているだけではなく、「しびれ」が体を駆け巡っているのである。そこから、対象を好きになるや、憧れるや、鳥肌が立つ感覚を追体験したいという感情がうまれる。何度も何度も好きなアーティストの曲を聴いたり、ゴールシーンを見返したりって感じですかね。

また、「カッコいい」モノの場合、それを所有し、身につけ、自分も周りから「カッコいい」と思われたいという感情も存在する。洋服や靴などはわかりやすいのではないでしょうか。



わからなくてもよい

体感で「カッコいい」を感じることの特徴に、詳細な情報を持っていなくてもよいということがあげられる。

例えば、美しい絵について。美術館で有名な作家の絵をみたとき、芸術家は~の表現がよいだとか、この絵は時代背景を反映しているだとか、様々な情報をもとに作品を評価するであろう。しかし、体感主義に基づく「カッコいい」では、作品をみたときに、鳥肌がたつかたたないか、しびれがあるかないかが重要である。「カッコいい」とは、その感覚を重視する。あなたが震えたのなら、誰がなんと言おうと、その作品は美しいのである。



アイデンティティになる

何に対して「しびれる」かは多種多様である。映画のラストシーン、新製品を見た瞬間、漫画の一コマ、作家の言葉、音楽などなど。何にしびれる」かは人それぞれ異なる。自分が何に「しびれる」かを発見することが、自己発見、アイデンティティへとなる。

だから、自分が「カッコいい」と思うものは周りに共感してもらいたいと思うし、批判されるとまるで自分のことのように怒りの感情が生まれる。


「しびれる」経験をしたあとで、反復的にその「カッコいい」ものに触れ続けることによって、恐らくは生理的興奮の回路が出来、ますますのめり込んでいくのだろう。それがファンになる、ということかもしれない。

私はバスケの試合を観ることが趣味なのだが、ハマった理由は、試合終盤など土壇場での攻防にしびれたからなんだろうなと、今は思う。私は当初、バスケの戦術やルールはよくわからなかった。(今でも何がファールなのかよくわかってない…)でも、試合終盤の、外したら負け、決めたら逆転の場面で、ボールを託されるエースと守備側の攻防は観ていてとてもドキドキ、ハラハラする。そして、応援しているチームがそのような緊迫したゲームに勝利すると、自分のことのように嬉しいし、また試合を観たいと思える。

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「カッコいい」には大きな力がある

冒頭で、「カッコいい」について考えることは、「いかに生きるべきか」「ポジティヴな活動を促す」など紹介した。ここまでの内容だけでも、これが大袈裟でないということは伝わったのではないだろうか?(伝わってなかったら私の文章力不足です…)

「カッコいい」ものは魅力的人気がありお金になる

多くの仕事においても、人々がどうしても欲しいと思える商品をつくる、使いたくなるサービスを提供する、また来たいと思える店をつくるなど自然と、「カッコいい」を追い求めているはずである


「カッコいい」は、民主主義と資本主義とが組み合わされた世界で、動員と消費に巨大な力を発揮してきた。端的に言って、「カッコいい」とは何かがわからなければ、私たちは、二十世紀後半の文化現象を理解することができないのである。


一度、世の中における「カッコいい」、自分が感じる「カッコいい」を見つめ直してもいいのではないだろうか?


ここまで読んで頂きありがとうございます!

何卒。


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