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無知であると認識した上での選択

ターニングポイントっていうと大げさに聞こえますが、人生をゆっくりと紡いでいるつもりでも、少なからず人生を左右するような選択をしてきたわけで。

あの時、なんであんな選択肢を選んでしまったんだろう、って後悔に似た思いを抱くことって結構あって、それは自分がネガティブに考えがちだからでしょうけど、さっき哲学の本を読んでいて、無知の知っていうところにいくつか想いを抱いたので、その辺を整理したい。

「あの時、なんであんな選択をしてしまったんだろう」という思いは、今だからこそ抱けるはずで、というのも結果を知っているから、そしてその結果が自分の期待していた通りのものではなかったから。
当時、一瞬の衝動でその選択肢を取ったはずであろう自分の思考を子細に覚えているはずがないからなんとも言えないのだけど、少なくとも自分のコアな部分は当時から変わっていないはずだから、それは考慮できると思うんだけど。

そんな中で、ソクラテスでしたっけ、無知の知っていう言葉を残したのって割と大きくて、自分が何も知らないということをきちんと理解しておくことで、自分を肯定することができるよな、とか、うーん、

自分を肯定したいがためにこのnoteを書いているような気がしてきた。

何も知らないということをきちんと理解しておくこと。

例えば新しい分野について勉強を始めたとするじゃん。

で、その時の先生から、「わからないことがあったらなんでも聞いてね」って言われたとしても、自分は何がわからないのかわからない状態で、だから質問することができないことって多いんだよな。

だって何を聞いたら良いかわからないから。

それこそが無知の知ということなのかな、と思ったんだよなぁ。自分を肯定したいと思った所以はそこで、何を聞いたら良いか分からない自分=想像力が欠如してる、ちょっと考えを巡らせたら質問なんていくつも出てくるんじゃないの、みたいに考えている自分がいて、考えていた自分がいて、

そして自分をダメな奴だな、って思っていたんだよな。

だけど無知は無知なりにコツコツを自分を磨いていくことによってだんだんと知識が身についてきて、そこから新たな興味が湧いてきてそれによって当然だけど質問だって生まれてくるだろうし、つまり最初の自分を否定するくらいなら分からないなりに自分を磨くことを続けなさいよ、ということなのかな。

そして多分だけど自分はそうやって生きてきたはずで、そう信じたいのだけど、だからこそ「あの時、なんであんな選択をしてしまったんだろう」という思いを抱くわけでしょ。それが良くなかったという気づきを得るほどの知識を蓄えてきたんだから。

だけど難しいよなぁ。例えば自分が子供に勉強を教える機会があるとするじゃん。それって、私が今まで経験したことを活かして子供に教えようとするんだけど、私は教えるプロではないからさ、自分に限界はあるはずで、まぁそこで教育書とか読めば自分の教え方にも幅が出てきて多彩な発展を遂げるのでしょうけど、自分にそこまでの情熱がないもんな。子供に対する教育について、私は無知だってことを理解しているつもりだけど、そんな状態にも関わらず、子供に教える、なんて言葉を容易に使っている時点で、自分が無知であるっていうことを知らない、っていうことに裏付けられる気がするね。
子供には申し訳ないけど。だからこそ学習塾っていう業界があるんだろうけど。

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