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教育とは「こんなふうに思う自分がおかしい?」を覆す根拠そのもの。

先日東京にひとり旅に行きました。現地で友達と合流して、本屋さんを巡ってきたのですが、蟹ブックスさんで出会った本が、わたしに革命を起こしてくれたので紹介したいと思います。

その本はこちら。

「Education 大学は私の人生を変えた」/タラ・ウェストーバー

あまりにも圧倒的だったので、感想noteを書くことにしました。というかむしろ手が止まりません。

オバマ前大統領が選ぶお気に入り29冊や、ビル・ゲイツのホリデー・リーディングリストに選ばれたこの本は、1人の女性の回顧録です。

モルモン教の敬虔な信者でサバイバリストの父、夫にはけっして逆らわず東洋医学への盲信を深めていく母、暴力と屈辱で支配する兄。

アメリカで狂信と危険と暴力に囲まれて、高校まで一切の公教育を受けずに育った女性が、大学に進学して論文を書いて博士号を得て、過去を見つめて「家族を愛している」と書いた自伝。

小さなコミュニティの末っ子だった作者が「自分の考え」を手にしていく過程が描かれています。

命を落としかねない大怪我でも医療は受けさせてもらえず「これは神の意志だ」「命を落とすかどうかすら神に委ねるべきだ」と意味付けされていくこと。

時間が過ぎるごとに改変され「そんなことはなかった、思い違いだ」「お前を守るためだ」と葬られていく暴力の記憶。

大きな外傷や激しい暴力の描写、父親が語る壮大な政府の陰謀など、大きな出来事はたくさん出てくるけれど、この物語のコアはそこではありません。

それよりも些細な会話や幼い作者の日記に書かれていることは、多くの人に「わたしと同じだ」と思わせる内容です。
本の帯には桜庭一樹さんの「『これ、わたしそのものだ……』と驚いた。」というコメントが寄せられています。わたし自身も、過去に感じたことのある感覚を的確に言語化されるスッキリ感を何度も味わいました。

例えば、以下の文。

私はずっと、自分がたしかに理解しているとは言えないことについて、それが確かだと主張する人たちに道を譲る以外の選択肢を持たなかった。つまり私の人生は、私以外の人たちによって語られたものだった。彼らの言葉は押しつけがましく、語気が荒く、そして絶対的だった。自分の声に彼らの声と同じような強さがあるかもしれないとは、それまで考えたこともなかった。

「Education 大学は私の人生を変えた」/タラ・ウェストーバー より引用

世の中には声の大きい人がいます。
自分が絶対的でそれが確かであると声高に話す人もいます。
(学生の頃、教授から「この分野はもうわかった」という人ほど危険な人はいないと聞いたことがあって、私は今もそれを信じています)
そういう大きな声と自分の意見が食い違ったとき。自分の声を彼らと対等な声であると認識するためには、根拠が必要だと私は思っています。

それが換気のよくないコミュニティなら、尚更。
家族のなかで大きな声を持つ人と自分の声がちがうとき、自分の身に危険がない状態で「私の声はあなたとはちがうようです」とただ述べることが、「自分の人生の手綱を握る第一歩」になるのだと思います。

大学時代、私は「母が悪かったのか、私が悪かったのか」を解き明かしたくて、必死で家族や子育て、その周りにある心の動きについての本を読み漁りました。
その結果として「保護者と子どもの価値観が異なる場合、子どもは自分の人生を切り拓いていくことに集中する権利がある」ことと「保護者自身も援助を受ける対象である」という相反する2重の根拠を持って、「どちらも悪くないけれど、母には今後のわたしの人生を変える権利はない」母と私の関係を意味付けすることができたんです。

特に「保護者と子どもの価値観が異なる場合、子どもは自分の人生を切り拓いていくことに集中する権利がある」。
このことを知らなければ、私は今も母と価値観がちがうことを申し訳なく負い目に感じていただろうし、自分の人生の方を向くことはできなかったと簡単に想像がつきます。

この根拠があったから、二度と実家に帰らずに生きていこうと決められて、この根拠が私の人生を救ってくれました。

小さなコミュニティの中では、声の大きい人や直視せず従う人によって、出来事の解釈が塗りつぶされていくことがよくあります。

「Education 大学は私の人生を変えた」のなかにも、兄からの暴力について家族との共有ができない様子がとてもリアルに描かれていました。

思わず膝を打って、これある!と言いたくなるほどリアルだったので、この本に出てくる怪我や暴力の描写が苦手な方でも第3部だけは読んでほしい…。

虐待をされていた娘が「なぜ虐待を止めなかったのか」と母に問う場面が特にあるある過ぎて…。

だってあなたは強くて冷静で、ショーンがそうでないことは誰の目にも明らかだもの。

「Education 大学は私の人生を変えた」/タラ・ウェストーバー 第3部より引用

意味が通らない。もし私が冷静であったのなら、けんかをしかけたのは私だというショーンをなぜ信じたのだろう?なぜ私が押さえつけられ、罰されなければならなかったのか。

「Education 大学は私の人生を変えた」/タラ・ウェストーバー 第3部より引用

私は母親です。母親は子どもを守るものです。そしてショーンは損なわれていた

「Education 大学は私の人生を変えた」/タラ・ウェストーバー 第3部より引用

損なわれている人、声が大きい人の行動を直視しないために、強くて冷静で理解をしてくれる側をなかったことにする。

コミュニティの大小を問わず起こることだけれど、なかったことにされた側が自分が間違っていないと考えることは想像を絶するほど難しい。
なかったことにされたのが、子どもなら尚更です。

この本で描かれていた「意味付け」と「なかったことにされる」は、我が家でも起きていました。

母は自分の中の意味付けしか信じてなかったのだと思います。
自分が1番虐げられているのだから、父が給料の3分の2を母に差し出すのも、子どもたちが母の思う通りに動くことも、母の意味付けの中では当然のこと。
基本的に父を頼ることはなかったけれど、どうしようもなくなって電話すると父は必ず「俺は忙しいし、アイツは言ってもムダ。まぁなんとかやれ」。

あの頃のわたしには根拠がなくて、父の言葉を仕方がないと飲むこむしかなかった。でも学べば学ぶほど、父への不信は大きくなったのをよく覚えています。

母が「医者に殺される」という内容の本を読んですぐに家族全員の保険証をハサミで切って捨てたときも、わたしには根拠がありました。

母がそうなる前に、病院に連れて行ってもらって治ったこと。本や新聞で読んだ病院に行けない人たちの話。

その根拠があったから、わたしは自分の保険証を持ち出せたのだと今になって思います。母と違う意見を持っている人がたくさんいると知っていたから。

ちょっと自分の話になってしまいましたが…。
自分にもこんなことがあった、と思い出してこの本の言葉を借りて語り直せるくらいに、感情の描写がリアルで重たいものでした。

そうやって語り直しているうちに、自分の原体験と今までの仕事の経験から、私は無意識に「根拠を持てる」ことを理想としてきたんだと気づきました。
自分が根拠を持つだけじゃなく、子どもたちにも根拠を持ってほしい。そう願ってきました。

同時に、今まで私が子どもたちに示せる根拠は、気持ちと体験しかなかったことにも気づきました。
それが専門職としてはおこがましい願いだとは思いながら、個人的に子どもたちの「生きてていい根拠」になりたいと願って一緒にいました。

子どもたちの柔らかい心のどこかに、“あなたのことを大好きで成長が嬉しくて、あなた自身はどう感じているのか知りたいと思っていた大人“がいた。だから生きていいし、幸せになっていいという証拠になりたかった。

だけど、そういう存在になるハードルというのはとても高いものでした。
まずその子との相性。(わたしのことを好きじゃない子、シンパシーを感じていない子に無理やり意味のある存在になろうとしないのが専門職として守ろうとしていたことでもありました)。

次にその子の中に人を信じられる余地が残っているかどうか。

あとは価値観。
人の価値観はそれぞれで、生きてきた過程で「こういうのが信じられる」「安心」と感じるかは千差万別。
新卒から相談を受ける仕事をしてきたので、保護者の方から「子どもがいないのに何がわかるのか」「こんな若い子に相談しても」と言われたことは何度もあります。その人たちにとっては何を言うかよりも「自分より先に同じ経験をした人」や「年配で敬われる人」が言っていることが大事。それは変えようがない。だからそういうツボを見つけて、合う人にマッチングするのも仕事のうち。一応遠くから見た上での見立てを伝えて、あとはお任せしたことも多々ありました。

わたしというひとりの人間だけで、多くの人にとって「この人が言ってくれるから」という根拠になるのはとっても難しいことでした。
実際にそうなれていたかは当人たちに聞かないと分からないけれど、変化の一助になれたような気がすることは何度かあって。それでももっと手が届かないところに届く人になりたいとずっと思っていたような気がします。

転職したのも、今まで手が届かなかった人に届くような気がしたから。
学校では授業以外に興味関心や得意を持つ子たちに手が届かない気がしてならなかった。株、ゲーム、英語じゃない外国語、イラスト、YouTube。それはすごいけど、授業は?となるのが歯痒かったから、手が届きそうな今の職場にきました。

明確に言語化できる期待はそれだけだったのに、転職して3ヶ月。
わたしは新しい手応えを掴んでいます。

それは、教育ならもっとたくさんの人にもっと確かな手応えで「自分の感覚を信じる根拠を持つこと」を届けられるんじゃないか?という手応え。

転職を決めたときの勘は、間違っていなかったらしいです。
こういう嗅覚だけはある自分を本当に褒めてあげたい。

冒頭で紹介した「Education 大学は私の人生を変えた」で描かれていたのは、主人公が自分の感覚や感情を信じられるようになるまでの過程なのだと読後しばらくして腑に落ちた感覚がありました。

もちろん「あなたのその感覚は間違いじゃないよ」と言ってくれる人がいて救われることもあると思います。でもそれが個人である以上、そう言ってくれる人から離れたらどうなってしまうのか。心の中にいる人との関係を保てる人もそう多くないと思っています。

教育は人から人へ対話の中で伝えていくものだからこそ、「それを自分に教えようと思った人がいる」ことと「その根拠が客観的に示されている」を両立できると思うのです。

虐待を受けている子どもに人権のことを教えたいと思うのは、きっと今よりも人権を損なわれない扱いを受ける未来を願う気持ちから。

人種差別、性差、障害、経済格差。
「嫌だ」と思っている側がその気持ちに根拠を持つことを嫌がる人は多いんでしょう。
だからこそ、知識を伝えることは、自分の信じる世界で生きていってほしいというメッセージだと思うのです。

もっと身近な話で、例えば「金融教育」と「詐欺」だってそう。

「本当かな?」
「自分が知らないから不安に思うだけで、自分が間違っているのかな?」
そんな気持ちになるよう仕向けてくる人がいます。

それでも株や市場の仕組みについて知っていて「絶対に当たる株は存在しない」なぜなら「数多の要因が複雑に絡み合って上下するものだから」と知っていれば、断言なんてできるはずがないと分かる。

「絶対儲かる株はない」の理由まで知っていることが、自分の感覚の根拠になってくれると思うんです。

詐欺や虐待などから、サバイバルできる人とそうでない人の違いについて、今までは経済力や人間関係、性格からなっていると思っていました。どれも流動的。

だけど、知識は一度知ってしまえば知らなかった時には戻れません。マインドコントロールや精神疾患など知っていても難しい場面はあるだろうけれど、知らない時よりも(自分を欺く感覚が苦しいけれど)行動に繋がりやすいのではと思います。

どんなときでも教育は「嫌だと思う自分が間違っているのか?」に対する答えを用意するものなのだと、この本は教えてくれた気がします。

子どもたちにいろいろな知識を伝えること、その意味は「いろんな世界があるのだと知ってもらうこと」だと思っていました。
でもさらにその先がある。しかもわたしの理想に近い形で。俄然やる気が湧き上がっています。

教育にもいろんな形があって、カリキュラムがあればそれをやり切る必要がある。個別最適化した人権や心理の知識も含めた教育をできる場所はそう多くないと思います。

今わたしがそれをできる場所にいる。これほど幸運なことはないからこそ、知っていてほしいと願うことを「知識」と「考える力」として手渡していきたい。

子どもたちがいつかどこかで「自分が間違っているのか?」と思った時に根拠を持って自分の声を扱えるように大切に未来を育てていきたいと思いました。

最後に。
この本の最後には「家族を愛している」と書かれていました。今も親交のある兄弟だけでなく、両親も含めて。
ここにこの本の凄みがあると思っています。
ただ離れて憎んで暮らすこともできる。頭がおかしいと非難して傷つけることもできる。
それでも誰もが自分の声と相手の声を対等に扱ってもいいのだと知っているから、自分の気持ちも家族の価値観も否定しない。
家族を愛しているし、家族も自分を愛していた。その事実と「その愛し方を受け取るかどうか」を分けて扱えている。これが「教育」

この本に出会えた。それだけで東京に旅行した甲斐がありすぎるほどです。
間違いなくわたしの過去と未来を語り直す道標になる一冊でした。

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