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「ずるい」という感情――損得勘定の難しさ

「ずるい」という言葉が苦手

ずるいという言葉の無意味さを感じる。どういうことかというと、「ずるい」と言ったからいったいなにが起きるのかがさっぱりわからない。どういう場面で「ずるい」という言葉を聞くだろうか。

「ケーキが3つあります。私が2つ貰うので、あなたには1つあげます。」
「ずるい」

これは確かに不公平さを感じる。自分が1個分相手より損している。ずるいと言えるだろう。

「部活の練習?5周走るところ、4周でいいや。」
「ずるい」

これがわからない。部活動の練習は、何のためにやるのだろうか?自分の技量の向上のためにやるのではないのだろうか。コーチから指定された練習メニューをこなす人が普通であり、そうじゃない人は「ずるい人」じゃなくて、勝手に技量が落ちて、自分の価値が下がっていく人だ。手を抜いても技量がある人は、練習云々ではなく、実力差が最初からあるわけで、それも「ずるい」わけではない。

「今度恋人とディズニーランド行くんだ~」
「ずるい」

これもよくわからない。いったい何がずるいというのだろうか。ただの恋人がいない妬み、ディズニーに行きたい羨ましさ。これを「ずるい」と表現するのは少し違う。

損得勘定で考える

ケーキの話は、もし相手が1つ多く得ることで、自分がもらえるかもしれない1つが失われているので、損をしている。これはずるい。しかし、部活の練習は相手が5周走ろうが4周走ろうが、自分にとっては損も得もない。彼氏ディズニーも、その人が行こうが行かなかろうが、自分にとって損も得もない。

相対的損得と絶対的損得

損得勘定と言っても、相手と自分を比較して、その損得について清算しようとする「相対的損得」と、自分にとって損か得かを考える「絶対的損得」があると思う。私はこの「絶対的損得」において不当に損することが「ずるい」と言われることだと思っている。どういうことかというと、「わたしが損している分、あなたが得をしている」という -1 ,+1 の関係は「ずるい」といえるが、「わたしは損も得もしていないけれど、あなたが得をしているということは、わたしは損をしている」という 0 ,+1 の関係をなぜか自分が-1だと思ってしまう相対的損得は、その人の得を奪ったところで、別に自分の得が増えるわけではないのに、なぜ「ずるい」と思ってしまうのだろうか。

とある界隈の店舗特典(ステッカー)

とある界隈でグッズ販売が行われた。店舗限定でステッカーを無料配布するという。しかし、その界隈のグッズ販売は初めてで、とても多くのファンが押し寄せる形になり、ネット上での整理券争奪戦が行われた。しかし、その予想を上回る人と整理券争奪戦の様子を見た運営側が「店舗と同じ条件でオンライン販売でもステッカーを配布する」ことにした。
これが発端でことが起きた。

がんばって整理券とって、地方から遠征するから飛行機やホテルを取ったのに、在宅勢は簡単にステッカーもらえるとか、運営ありえない!しかも謝ってもくれない!おかしい!

これは、相対的損得で勘定する人の考え方だろう。在宅勢がステッカーをもらえようがもらえなかろうが、自分の損得には一切影響しないのに、相対的に考えると自分は損していると思ってしまうのである。

対して、絶対的損得で勘定する人は、その人たちの考え方がわからない。だって本人にとって損得がないのに、なぜそんなに怒っているのだろうかと。

飛行機代やホテル代がかかるから損だというのは、少し違う。なぜかというと、飛行機代やホテル代は「運営が強制した損」でもないうえ、自己決定した際にはその手段しかなかったわけだから、それは損とは言えない。場合によっては、オンライン配布がなければそれを払っていたわけで。オンライン配布になったから、そこが払いたくなくなる感情はわかるが、そこには現地勢と在宅勢の不公平さはない損得もない。相対的損得で換算すれば損だと思ってしまう

相対的損得の非生産的な面

そんな相対的損得で勘定する人は、日ごろから生きにくくないのだろうか。べつに自分は損も得もしていないはずなのに、得した人をみるとまるで自分が損したかのように感じてしまう。そしてその得した人の得を奪い取ろうとする、または妬みに妬む。これは非生産的で何も生まない。
得した人と同じ場所に並ぶには、相手を下げるのではなく、自分を上げよう(自分が得しよう)と考えたほうが、いささかなりとも生産的ではないだろうか。

5周しっかり走るなり、さらに加えて走って、実力を見せつけるとか、自分も恋人作ってディズニーランドどころかホテルに泊まるとか。マウントをとるなら、こういう時だろう。

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