例年より遅く桜の蕾が開き出した時期、竹子はそれまで勤めていた会社を辞めた。これまで、平日は片道1時間半かけて満員電車で職場に行き、同僚や上司に囲まれながら仕事をこなす。1日の大半が、周りにたくさんの人がいることを避けられない時間だったけれど、今では、意識しないと誰にも会わず、1人で過ごす時間がほとんどだ。話し相手といえば、専ら自分、そして夕方仕事から帰ってくる夫。会社に行けば、仕事があって、降り掛かってくる物事に対処していれば、自分が少しでも何かを作り出している気になり、とりあえず自分の存在を確認できた。
でも今、竹子には自分の存在を確認させてくれるような仕事はない。会社員でなくなったら、受け身の姿勢では何も仕事がこないのだ、と暖かな午後の日が差し込む窓辺の椅子に座りながら、竹子はぼんやり思った。
朝、夫が出勤した後、冷蔵庫の微かな震動音しか聞こえない部屋にいると、どうしたって自分と向き合うことになる。
台所には朝食で使った食器が洗われるのを待っていて、横を通るたびに、「まだ洗わないのか、いつ洗うのか」と話しかけてくる。その声を聞かなかったふりをして、パソコンを開き、キーボードで文章を打ち込む。自分の中にある声を聞き取ろうともがきながら、竹子は自分で自分の存在をつくりあげようとしていた。
寒い日が続き、例年より土から顔を出すのが遅い筍の収穫を待ちながら、竹子も土の中から芽を出そうともがいていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?