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【映画JOKER 感想】善人ではいられなくなる瞬間

映画「ジョーカー」、ようやく、観ました。
まずはアカデミー主演男優賞・作曲賞おめでとうございます。
いやー、これは……。とにかくしんどくて、語りたくなりますよね。

というわけで、今更ではありますが、noteに感想を書いておきたいと思います。
「感想」なので、皆さんがご覧になったという前提で書いていきます。
ネタバレはご了承ください。

善人と悪人

後の大ヴィラン「ジョーカー」となる、アーサー・フレックがこの映画の主人公です。

彼は、病気により突然笑いだしてしまうというハンディキャップを抱えながら、認知症を患う母親の世話をし、人を笑わせるためのピエロとして働き、薬を処方してもらうための病院側との面談もしっかり行っています。
貧困にありながら、社会との関わりをしっかりと持つ、どちらかと言えば誠実な人、なのに、若者からは虐げられ、職場では疎まれ……。

冒頭から丁寧に上記の状況を開示していくので、もうつらかった。
哀しくてもみんなのために笑うピエロと、ピエロを脱いだ後でも強制的な笑顔に押しつぶされていく状況がひたすらに、重い。

アーサーはこういった状況に我慢できずに、ゴミ捨て場にあたるのですが、この行為に共感・同情してしまうんです。
人間は少なからず、常識的で、道徳的な「善人」を装って生き、自分勝手な「悪人」を疎みます。
でもそれは、社会的な地位が確保された状態において、です。
近年「無敵の人」というキーワードがTwitterを駆け巡りましたが、社会的な要因で追い詰められたアーサーのような人が、善人のままでいられるでしょうか。
善人と悪人のはざまで、アーサーは物に当たりますが、それは、理性の働きか、それとも、上司に直接反撃する勇気がないからか……。
アーサーほどの境遇ではなくとも、なんとなく自分にも重なるような瞬間がいくつかあった後に、あの物に当たるシーンは、また一つ自分の影の部分を見ているようでぞわっとするんですよね。

そして、前半の山場・地下鉄のシーンへ。

理不尽な出来事の連続でピエロをクビになり、失意の中乗車した地下鉄で、酔ったサラリーマン3人組に暴行を受け、持っていた銃で全員を殺害します。

暴行から身を護るためだから
女性に絡んでいた「悪人」だから
これまでの人生が、あまりにも理不尽だから

この映画の方向性を知っている私は、「もう引き金をひいちゃえば」という悪魔のささやきが聞こえるような感覚がありました。
だからこそ、逃げ出した3人目を追いかけて銃殺したのには、カタルシスすら感じたのです。
直後に錯乱状態で逃げ込んだトイレで、アーサーが一人静かに踊るシーンは、神下ろしの舞のようで神々しさすらありました。

とはいえ、殺人を犯してもよいわけがない。
このシーンまでに丁寧な描写を重ね、観ている側にも、善悪の彼岸をいつの間にか歩かせ、アーサーが善人でいられなくなった瞬間に感情移入させているのです。

ミクロとマクロ

物語には、主人公個人のミクロでの視点と、それに関わる社会の動きというマクロの視点が重要になるといわれています。

地下鉄でサラリーマンを殺害した事件は、当然大きな話題となるのですが、メディアでは「富裕層と貧困層の対立」を軸に語りたがります。
アーサーはあくまでも身を護るため、言うなれば個人的な動機でしたから、そこに義賊的な意味はなかったはずです。

でも、大衆は「ヒーロー」を求めていたのです。
自分達がむかつく相手を殺してくれる誰か。

映画の描写の中では、貧富の差が広がり、街はゴミにあふれ、社会福祉の予算は削られていました。
あまり親身に面談してくれなかった病院の事務員も、「上は自分達のことなどどうでもいいと思っている」という趣旨の発言をします。
病を抱え、社会につまはじきにされているアーサーだけではない、大衆が、自分はどうでもいい人間だと感じていた。

だから、アーサーが引いた引き金は、そのまま社会への爆発につながっていたことが色濃く描かれます。
社会のくず3人がピエロの恰好の人に殺された、という謎と非日常に満ちた魅力的なストーリーが、大衆には心地よかったということなのでしょう。
ヒーローには、スーツが重要。

話は飛びますが、終盤の地下鉄の場面は、燃え広がった後のバックドラフトのようでした。
あの時の乗客の目には、大衆を威圧する警官による発砲に映ったんでしょうね。もうどうしようもなさがきつかった……。

とにかく、メディアと大衆にとって、事件の真相はどうでもよかった。
次はだれを殺すのか、という期待と、自分たちのうっ憤を晴らすきっかけが欲しかった。

ファンには不評な部分として、最終的な「ジョーカー」が悪のカリスマではない、という点が挙げられますが、社会悪を罰するという大義のため、大衆の罪悪感の矢面に立たされた状況にあるのかな、と感じています。

嘘と真実

この映画のラストシーンは、白い部屋で女性に対し話をしている状況でした。
アーサーは精神疾患で入院し、ジョーカーは彼の妄想だったのでしょうか。
そういう意図もあったのかもしれませんが、私は、これまでの話は、この女性からの「事情聴取」だったのかな、と思いました。
というのも、映画の内容がとても主観的なんです。
例えば、映画前半に、アーサーは同じアパート住人の女性と出会います。
彼女とデートを重ね、仲良くなっていく……
というのは、アーサーの妄想でした。
別のシーンでも、アーサーの妄想が入り込んだり、時系列が微妙に曖昧だったりと、滔々と語られる「お話」をそのまま映像化したような印象でした。

映画ジョーカーでの有名な話として、出てくる時計が全て11時11分を指している、というのも、主観的な気がします。
時計の針まで見ていないんですよね。

また、アーサーの両親の話でも、本当のところ、父親は誰なのか、母親は嘘をついていたのか、というのは、様々な考察がなされていますが、少なくとも主観としてのアーサーにはどうでもよかった。
これまでの人生を過酷なものにした張本人としての母親でしかないのでしょう。

ラストで、憧れていたテレビの司会者を殺した際、アーサーは地下鉄での3人のエリートを殺したという自分の罪を告白しました。
でも動機については、歌が下手だったから、と嘘をつきます。
なんだかこの見栄みたいなものも、リアル。

一方、殺された方の司会者も、アーサーの地下鉄殺人を当然咎めますが……。
観客としては、正論を言える立場じゃないだろと簡単に突っ込めるんですよね。
アーサーがテレビに出演できたのは、ざっくり言えば、「馬鹿にするため」。
面白くないくせに芸人志望な世間知らずをわらうためにテレビに出すのは、アーサーに対する社会的な殺人では無いのか。

虚構と現実

ジョーカーという映画の持つパワーは凄まじいものがあると思います。
それは、出演者各々の怪演や、陰鬱ながら美しい音楽の力も大きいでしょう。
ただ、その内容的に、公開前から危険視されたというニュースを見かけました。

でも、そんなにですか?

もちろん衝撃的な内容ではありますが、公開中止に追い込もうとされるレベルだとは思えないんですよね。
それほど、この映画と現実が重なって見えているということなのでしょうか。
確かに、世界は不満だらけにも見えます。
その不満を爆発させるトリガー・ジョーカーは、芸人志望のアーサーでも良いのであれば、映画の1キャラクターだとしても良いのかもしれません。
欲望を暴走させるはけ口として存在すれば良いのですから。

おわりに

なんだかとりとめもなくだらだらと書いてしまいました。
ただ、あまりこの映画の感想を秘めておきたくなかったんです。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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