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ハイデガー「存在と時間」入門(2)

第3章 現存在の存在の分析(前半)

2373noteをご覧いただきありがとうございます。

今回は、第3章「現存在の存在の分析」の前半を読んでいきます。

今回読んでいく第3章前半では、現存在、つまり人間の存在を分析するのに必要な哲学的なツールの説明が行われます。

哲学的ツールを使って人間の核心に迫っていく第3章後半のための準備ですね。

では、早速、読んでいきたいと思います。

現存在を分析する意義

存在には、実存(現存在の存在)と現存在以外の存在者の存在の2種類があります。

現存在は自分以外の存在者も現れてくる「」なので、現存在の探究には、現存在以外の存在者の存在論も含まれてきます(p156)。

したがって、現存在を分析すれば、両方の存在が取り上げられることになるので、存在一般に関する体系的考察の基礎となります。

では、早速、読み進めていきましょう。

現存在=「世界ー内ー存在」

ハイデガーは、現存在の存在構造を「世界ー内ー存在」と規定しました(p157)。

そして、この存在構造は、「世界」、「自己」、「内ー存在」という3つの契機から構成されています(p159)。

これらを分析することが、現存在の分析になります。

この章では、これら3つの契機のうち、「世界」「内ー存在」が取り上げられます。

「世界」とは

世界とは、そこにおいて存在者の現象が可能になる「場」です。(p191)

鳥が飛んでいる場合、飛ぶということを可能にしている空間性や時間性が世界です(p191)。

さて、世界を、存在一般ではなく、現存在の存在を可能にする「場」として捉え、分析を進めていきます。

この分析で、ハイデガーが注目したのが「道具」です。

「この世界は、現存在が自分の何らかの可能性をその究極目的として、その実現のために必要とされる一連の手段の連関として構成されている。」(p192)

「ハンマーが手元に存在する。そのハンマーは釘を打つためのモノである。釘を打つことは屋根を固定するために行われ、、屋根を固定することは風雨からの防護のために行われ、風雨からの防護は人間が居住することのために行われる。このハンマーがいったい何のためのハンマーなのかということは、究極的には人間の居住にまで行き着くこうした目的ー手段連関のうちで規定されている」(p192)

このように、人間の居住として「気にかけられているもの」が諸手段に対して意義を与えていく連鎖構造を、有意義性連関と呼びます(p193)。

「内ー存在」とは

「内ー存在」とは、世界の中にある、現存在自身のことです(p159)。

現存在自身は、現存在という「場」の中に、現象します。

現存在が場に現象することを、「明るみに出すこと」、「開示」と言います(p172)。

開示」を構成する要素には、「情態」と「了解」があります(p172)。

情態と了解は、別々のモノではなく、一体のモノとして開示を構成します。

これを、等根源性(p200)と言います。

「情態」

情態とは、「気分」(精神的)「調子」(肉体的)です(p174)。

現存在は、恐れ、怒り、喜び、退屈といった気分として現象します(p174)。

私たちが生きている限り、「気分」や「調子」というモノからは逃れられず、常に、現存在自身は、情態として現象していることになります。

ハイデガーは、例えば「不機嫌」について、「現の存在がこうした不機嫌において重荷としてあらわになる」と表現しました(p176)。

不機嫌なとき、現存在は「重荷」として現象します。

このように、「気分において開示される自己の存在は、自分の意思によって引き起こされたり、生み出されたりしたモノではない。現存在は気分のうちで、自分が既にそのようにあること、つまり、ある固有の状況のうちに置かれていることを、己の意のままにならない事態として見出すだけである」(p177)

このことを、被投性(投げ入れられる)と表現します(p177)。

気分において、現存在自身は、否応なしに現存在の「場」へ投げ入れられているのです。

「了解」

了解は、情態の「認知」の側面で(p190)、理解することを意味します。

「ある現存在が自分の置かれた状況をよく理解しているということは、彼がその状況の中で適切に振る舞うことができるということである。」(p194)

したがって、理解することは、そのモノに何ができるか、可能性を規定することを意味します(p195)。

そこで、「ある存在者を了解するとは、その存在者の可能性を把握すること」を意味します(p196)。

これを、投げ入れること、「企投」と言います(p196)。

現存在自身も、了解によって、自分自身の可能性を把握し、そのような「可能存在」として現存在の「場」に現れます。

しかし、現存在には特殊性があります。

現存在は、「場」に現れることを拒むことはできません。

なぜなら、現存在は、情態によって、意志に関わらず、「場」に投げ込まれてしまうからです。

したがって、現存在は、企投されるという状況に被投されていることになります。

これを、「被投的企投」といいます。

これが、現存在の存在形式の本質です(198ー200)。

これまでの議論は、これを導くための議論でしたので、これが後半での最も重要なキーワードとなります。

まとめ

以上で、現存在の存在の構造「世界ー内ー存在」を構成する要素である、「世界」と「内ー存在」が定義されました。

その中で、了解、情態、企投、被投、被投的企投というツールが登場しました。

これらのツールを使って、いよいよ次回では、現存在、つまり人間の核心の追求がはじまります。

第3章の前半はここまでです。

お読みいただきありがとうございました。

次回は引き続き、第3章の後半を読んでいきます。




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