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ハイデガー「存在と時間」入門(3)
はじめに
今回は、「第3章 現存在の存在と分析」の後半を読んでいきます。
後半のテーマは、「不安」と「気づかい」です。
ハイデガーが哲学的ツールを使って、人間の根源性に迫っていく部分になります。
前回までで分析された、「内ー存在」における開示(情態と了解)、企投と被投、現存在のあり方としての被投的企投という哲学的ツールを使って、人間の存在の本質が明らかになっていきます。
結論を先に言うと、不安とは、キリスト教で言うところの神への敬虔な恐れに対応する情態です。
不安として開示された現存在は、同時に了解されますが、その際、世界との関係から自分自身を意味づけることができず、自分自身そのものと向き合うことを余儀なくされます。
気遣いとは、開示の態度のことです。
本来的な態度を取った場合、現存在は不安として開示され、現存在は自分自身と向き合います。
一方、非本来的な態度を取った場合、現存在は不安として開示されるものの、現存在はそれから逃避し、自分自身ではなく、世界に没入します。
それでは、早速読み進めていきます。
「不安」
現存在の開示、「場」への現れについて、最も重要になるのが、「不安」という情態です。
えっ、「不安?」となると思いますが、これにはキリスト教学の背景があります。
アウグスティヌスは、神への態度として、「敬虔な恐れ」と「奴隷的な恐れ」を取り上げています(p221)。
敬虔な恐れは、神への愛、すなわち善そのものを追い求めることに由来します。
奴隷的な恐れは、罰のために神を恐るモノです。
この敬虔な恐れこそが、「不安」です。
さらに、ルターによる「創世記第3章」のアダムとイブの寓話についての講釈が取り上げられます(p222ー223)。
「アダムのうちなる理性と意志の本性は、神を知ること、神を信じること、神を恐ることであったが、蛇にそそのかされて知恵の実を食べてしまった今はそれが失われてしまった。」
敬虔な恐れが失われてしまったということです。
さらに、アダムとイブが神の声を聞いて木々の間に身を隠したという箇所について、「彼らがかつては分別をもち、神の前にまっすぐにたち、神を讃え、けっして逃げ隠れしなかったのに、今では神の気配にさえ驚愕することになった。
最高の安心感から、神のうちにあるという自信と喜びから、悪魔の姿と臨在に対してよりも、さらにいっそう神の姿に対して尻込みするような忌まわしい恐怖に陥ってしまうとは。」
敬虔な恐れに、奴隷的な恐怖がとって変わったということです。
では、このような背景を持つ不安を、ハイデガーはどのように哲学的に再構成するのでしょうか。
不安の対象は、世界に現れる存在ではなく、現存在自身です。
そして、この不安のもとでは、現存在自身以外のモノが意味をまったく失ってしまいます(p216)。
「日常において、自分が出会うさまざまな事物をどう扱うかは、望ましいとされるあり方が世間によってすでに定められている。だが、不安においてはそうした規範が崩れ落ち、また同時にそれを望ましいモノだとする他者からも切り離された状態で、おのれのあり方の選択が迫られて」いる(p219)。
これを単独化と言います。
死と向き合う時の感覚に似ているように思われます。
そのとき、それまで必死に関わってきた世界のことは背景に退き、生々しい自分自身と向き合うことになります。
病院のベッドで、不治の病に冒され、一人横になっている姿が想像されます。
不安において、被投的企投という現存在の存在構造が、純粋な形であらわれています。
情態によって、現存在自身は、自分の意志に関わりなく、現存在の「場」に投げ込まれます。これを「被投」といいました。
不安は情態である以上、現存在は不安として、被投されます。
一方、「場」の存在は、了解によって、その可能性が把握されます。これを「企投」と言いました。
つまり、現存在は、自分自身の存在能力を選択すること(企投)を、強いられています(被投)(p226)。
不安は、現存在を被投するとともに、その了解においては、現存在を世界から切り離し、単独で企投することを余儀なくさせるのです。
したがって、「不安」の元で、被投的企投という現存在の存在の構造が最も純粋に明らかになります。
さて、現存在は、このような構造において、どのような開示の態度を取るのかを分析するのが、次に触れる「気遣い」です。
「気遣い」
現存在は、現存在の「場」に強制的に投げ込まれ、その能力と向き合うことを余儀なくされます。
これを被投的企投と言いました。
このことは、不安という情態において、最も純粋に現れます。
不安によって、現存在の「場」において、現存在は単独化され、世界との連関から切り離して、現存在自身を了解することを余儀なくされるからです。
このような開示の際に取る態度が、「気遣い」です。
現存在は逃げの態度をとる、すなわち、居心地の悪さから逃避して、己自身ではなく、世界のうちで現れる物事の配慮に没頭することがあります(p229)。
これを「頽落」と言います。
仕事に忙殺され、自分の健康や家族のことを忘れているような姿が最も典型的な姿でしょうか。
以上が、今回の内容でした。
これまでのことを総括すると次のようになります。
「キリスト教人間学では人間と神の関係とされているモノが、実存論的分析では現存在とおのれの存在能力を気遣うこととして捉え直されるのである。現存在は存在する限りおのれの本来的存在能力を引き受けねばならず、そうした存在能力からは逃れることができない。にもかかわらず、現存在は「世界」の配慮に没入するという頽落によってそこから逃れようとする。だが、神が人間をどこまでも追求するように、自分自身の存在能力は現存在をつねに追いかけ、現存在がそこから解放されることはけっしてない」(p235−236)。
次回予告
ここからは、次回予告になります(p236)。
気遣い、開示の態度には、「献身」と「世界への没入」という二種類があります。
現存在が不安によって自分自信の存在能力と直面したとき、それを引き受けることが「献身」、逃避することが「世界への没入」です。
そして、前者が存在の本来性(あるべきあり方)、後者が存在の非本来性(あるべきでない生き方)に当たります。
さて、第3章の後半はここまでです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
次回は、第4章「本来性と非本来性は何を意味するか」です。
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