ハイデガー「存在と時間」入門(6)
はじめに
2373noteをご覧いただきありがとうございます。
今回は、第5章「存在と時間はなぜ未完に終わったのか」を読んでいきます。
今までの内容を総括し、「存在とは何か」への回答を引き出していきます。
今回が全6回の最終回となります。
「存在と時間」の全体像
まず、「存在と時間」は
体系的な説明として
1 現存在の基本分析、時間性
2 存在一般の時間性
歴史的な説明として
1 カント
2 デカルト
3 アリストテレス
を構想していました。
しかし、体系的な説明の1で頓挫し、体系的な説明の2や、歴史的な説明はまとまって語られずに終わってしまいました(p354)。
体系的な説明の1の残りの部分、「現存在の時間性」を理解した後、2で説明されるはずだった「存在一般の時間性」の議論を推測する部分を取り上げたいと思います。
現存在の時間性
現存在の存在(実存)には、本来的なあり方と非本来的なあり方があります。
ここで取り上げるのは、本来的実存の時間性です。
時間には、将来、現在、既在(過去)があります。
死への先駆けによって、「現存在は特別な可能性をもちこたえ、その可能性のうちでおのれをおのれに至らしめ」ています(p334)。
これが、将来という契機です。
また、現存在は死への先駆けにおいて、「被投性を引き受ける」、つまり、自らが、すでに存在している世界によって制約されていることを受け止めています(p335)。
これが、既在という契機です。
現存在は、さらに、死への先駆けにおいて、事物と関わり、存在者を現前させます。(p336)
これが、現在という契機です。
そして、現存在の本来的存在は、これら時間性の3つの次元、将来、既在、現在の統一(p340)を意味します。
これが、現存在とは何か?に対する答えです。
時間性の3つの次元の統一です。
ここまでが、「存在と時間」に書かれている部分です。
ここから先は、著者である轟氏の推測になります。
存在一般の時間性
「現存在とは何か?」に対する答えは、時間の3つの次元の統一でした。
同じく、「存在一般とは何か?」に対する答えも、「時間の3つの次元の統一」だと予測されます。
しかし、この部分は未完に終わってしまいました。
伝統的な存在論は、存在について、現前性、現在性を前提にしていました。
ハイデガーは「存在」というものを、時間性として解釈し、過去、将来、現在の統一だと説明し、後にはこれを「生起」と言いました(p406)。
結局、存在というものは存在せず、その実質は生起である、というのが答えだったのです。
こうなると、形而上学的な言葉、伝統的な存在論を前提とする言葉を使って議論することには無理があります。
このことをハイデガーは、「形而上学の言葉の助けによってはそれを切り抜けることができなかった」と述べています(p380)。
そして、「存在と時間」は挫折してしまいました。
以上が、存在一般の時間性に関する試みと、オチでした。
まとめ
(伝統的な意味での)存在は存在せず、その実質は、将来の可能性、過去による制約、現在の関係性が統一され、生起していく現象だということでした。
このような捉え方によって、物事を「実体」として捉えずに、「プロセス」として捉えることが可能になります。
そうすることによってはじめて、死を意識しつつ生きること、環境に適合しつつも自分自身であり続けること、制限されつつも自由であること、を矛盾として捉えずに、そのまま、現象、プロセスとして受け入れることができるようになると思われます。
今後、困ったとき、停滞したときには、是非ともハイデガーの考え方を生かして、乗り越えていきたいと思います。
おしまい・・・?
ちょっと待った!!
哲学を人生論的に見て、「ふーむ」「なるほどー」と思って終わる場合だと、上の結論で十分です。
しかし、その結論って、特に哲学せずとも、幸せに生きようとしたら自然とできることですよね?
当たり前のことをウンウン頭をひねって導いてどうするの?と思ってしまいます。
当たり前のことなので、すぐに忘れてしまいます。
哲学が、ただの人生論と違うのは、その思考の緻密さです。
ハイデガーからは、その思考の緻密さ、テーマ選択と分析の方法の巧みさを学びとらなければならないと思います。
そして、その思考を生かして、私たちは、まさに目の前にある現実の問題に立ち向かっていかなければなりません。
そうしてこそ、書物と対話できたことになるはずです。
では、ハイデガーの思考を生かすべき応用分野として、どのような分野が上げられるか?
それは、後書きにも書いてありますが、「技術」分野と「宗教」分野です。
急速な遺伝子工学の発展、G A F Aの台頭に結実しているIT産業の発展の中、私たちの生活が抜本的に変わっていく今日、私たちはそのような技術とどのように関わっていくべきか。
もっと具体的に言うと、新しい技術の進むべき方向を支援し、逆にどのような方向に進むのを規制するか、について、緻密な思考を組み上げていく必要があります。
その結果は、起業家が目指すべきテーマの選択や、法規制の内容をどうするか、に結実するはずです。
また、原理主義が台頭し、テロなど、宗教対立が先鋭化している今日、「宗教とは何か?」「宗教は対立を続けざるを得ないのか?」について、ハイデガーがキリスト教学を哲学に還元したようなやり方を参考に、各宗教の対話の基盤を構築することも可能となるかもしれません。
ここまで生かしてはじめて、哲学を学ぶ意味があると考えますので、引き続き、頑張っていきたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。
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