【現代哲学】マルクス・ガブリエル(3)
はじめに
マルクス・ガブリエルの3回目です。
”WHY THE WORLD DOES NOT EXIST”の第2章と第3章を読んでいきます。
テーマは「存在」です。
なぜ、哲学を学ぶのか?
ガブリエルの答えは、「世界をありのままに見る」ためです。
new realismにおける「存在」をマスターすれば、「生きる意味は?」「サンタはいるの?」などという単純ですが難解な、こどもからの質問にも答えられるようになり、思考がクリアになります。
思考がシンプルになるので、今やノスタルジー抜きには思い出せない、「小学校、夏休み初日の午後の自分」に戻れるかも知れません。
今回も、それを目指して、頑張りましょう!
「存在」の定義
まず、「存在=existence」の定義を確認していきます。
ややこしいですが、ここさえマスターすれば、あとは簡単なので、踏ん張りどころです。
定義は
existence = appearing in a field of sense(p65)
です。
ここでのappearは、「現れている」、という意味です(p66)。
ここでのsenseは、ものごとが「現れている」方法、つまり、ものごとの現れ方を意味します(p69)。
なので、field of senseは、「何かが、何らかの形で現れている領域」を意味します(p69)。
何かが起きる場所、環境だととらえれば、大きくは間違いません。
ただし、それは物理的な世界のみならず、リビングだったり、私たちの脳内だったり、ありとあらゆるものを含みます。
よって、存在は、「何かが現れる領域に、現れること」になります。
これだけだとわからないので、具体例を見ていきます。
まず、あなたの左手の存在を考えてみます(p69)。
物理的な領域においては、あなたの左手は原子の集まりとして生じ、その原子は、さらに細かい素粒子の集まりとして現れます。
一方、肉眼で見る世界においては、5つの指があって、指紋やしわがあるものとして現れます。
さらに、意味の世界においては、芸術作品として、あるいはランチを口まで運ぶ道具として現れます。
左手は、3種類の「何かが現れる領域」に現れていますね。
いずれの場合も、左手は「存在」しています。
次に、小説の登場人物を考えてみます(p70)。
例えば、十津川警部シリーズの主人公は、警視庁刑事部捜査一課に現れます。
しかし、物理的な世界では、彼は、警視庁のどこにも現れません。
主人公は、前者では「存在」していて、後者では「存在」していません。
次に、もう一つ重要なポイントがあります。
existenceは、独立した何かではなく、「何かが現れる領域」の、一つの状態に過ぎないということです(p71)。
「何かが現れる領域」というものがあって、その領域が「何かが現れている」という性質を持っている、ということです。
以上が、基本的な存在の定義でした。
ここを押さえれば、あとは芋づる式です。
Worldは存在しない
Worldの定義からはじめます。
World=the field of sense in which all other fields of sense appear(p74)
です。
つまり、全ての「何かが現れる」領域が現れる領域です。
しかし、このようなworldは存在しません。
背理法で証明します(p76)。
Worldが存在していると仮定します。
worldが「存在」する以上、worldは「何かが現れる領域」の中に現れています。
さて、worldは全ての「何かが現れる領域」が現れる領域でした。
そうすると、worldの中に、worldが現れていることになります。
world=world+他の「何かが現れる領域」
になります。
worldとは、worldと他の「何かが現れる領域」が現れているという性質を持った領域、ということになります。
worldを説明するのに、worldが出てきてしまったので、無限に続けても、worldは説明できません。
このような不都合が起こる理由は、仮定が誤っていたからです。
つまり、worldは存在しません。
「存在」に関する基本原則
以上の定義から、新しい「存在」に関するネガティブな法則とポジティブな法則を導くことができます。
■(ネガティヴな法則)worldは存在しない(p78)
証明済です。
■(ポジティヴな法則)「何かが現れる領域」は無限に存在する(p78)
証明してみます。
青い立方体が存在しているとします。
その青い立方体は、「何かが現れる領域」に現れているはずです。
そうすると、「何かが現れる領域」は存在しています。
そうすると、その「何かが現れる領域」は、別の「何かが現れる領域」に現れているはずです。
この証明は無限に続くので、「何かが現れる領域」は無限に存在します。
否定文のナゾが解ける
さて、以上のことを元にすれば、否定文のナゾを解くことができます(p88)。
「ポケモンは存在しない」
という文について考えてみます。
ポケモンという言葉自体は、ポケモンの存在を前提にしています。
しかし、それを「存在しない」と言って否定することは、一見矛盾のように見えます。
これが、長年哲学者を悩ませてきた悩みのタネでした。
しかし、ここまでの勉強で、この問題は簡単にクリアできます。
「存在」とは、「何かが現れる領域」に現れることでした。
ポケモンは存在しない、という否定文は、ポケモンがある一定の「何かが現れる領域」、例えば現実世界、に現れない、ということを意味します。
つまり、相対的な否定文に過ぎないのです(p90)。
ポケモンは、その言葉を発した人の意識という「何かが現れる領域」には現れるが、現実世界という「何かが現れる領域」には現れないということを言っているにすぎず、何ら矛盾はありません。
しかし、ポケモンは存在しない、という否定文が、全ての「何かが現れる領域」に現れない、ということを意味するとすると、これは矛盾です。
なぜなら、ポケモンという言葉を紡いでいる時点で、ポケモンという言葉を発した人の脳内という、「何かが現れる領域」にはポケモンが存在しているからです。
しかし、安心してください。
全ての「何かが現れる領域」を貫く領域=worldは存在しません。
だから、「Xは絶対的に(=worldには)存在しない」という文は、存在しないものの中には存在しない、というナンセンスな文なので、今後は気にする必要がありません。
意味のある否定文は、常に、相対的な否定文なのです!
これで人格否定されても安心です!
日常の思考のナゾが解ける
私たちの思考は、日々、さまざまに廻ります。
ガブリエルは、2012年の4月に、ドイツの自宅ベランダでこの本を書いています(p95)。
文章を書きながら、時々、美しい教会の尖塔を眺めます。
子供が庭のホースで遊んでいます。
ふと、哲学者の友人との会話を思い出します。
ニューヨークのワシントンスクエアの公園で、思慮深く、親しみやすい彼の姿が思い浮かびます。
ふと、喉が乾いたので、側のお茶に手を伸ばします。
このように、ガブリエルは、さまざまに思考を巡らしています。
私たちは毎日、様々な「何かが現れる領域」の間をぴょんぴょん何百回も飛び回っているのです(p95)。
このことは、大人になってからも、こどものころも変わりません。
しかし、あらゆる「存在」について、私たちは大人になるにつれ、無関心になっていきます。
小学生の頃の夏休み、初日の午後、その時の自分を思い浮かべてみてください(p96)。
あらゆる「存在」は、輝いていませんでしたか?
太陽でも雲でも雨でも、それらはそれだけで意味がありませんでしたか?
何かが起こるたびに、それらはそれだけで輝いていませんでしたか?
私自身、最近は、思考が硬くなり、例えば仕事のことばかり考えて、雨が降っても、うわっ、移動がめんどくさいなー、太陽が照ると、日焼けが嫌だなー、と感じてしまいます。
ものごとが現れる領域は無限にあるにもかかわらず、私は、「自分の利害の領域」にばかり意識を固定してしまうので、私にとって様々な「存在」は、利害との関係で現れてきてしまいます。
つまり、あらゆる存在は、利益を及ぼす限りで輝きます。
これが、大人と子供の差ではないでしょうか?
大人になればなるほど、一定の領域に、意識を固定してしまいがちになります。
しかし、大人でも、一日のうちで、意識は色々な領域の間を飛び回れるのです。
つまり、考え方を変えるだけで、あらゆる存在を意味のあるものにし、輝かせることができるのです!
私は、ガブリエルは詩人としてのセンスをものすごく持っている哲学者だと感じます。
物質的なものは存在しないというmaterialismや、世界は空想だというconstructivismに比べて、new realismの描き出す世界は、限りなく豊かです。
まとめ
以上が、ガブリエルが唱えるnew realismの存在論の基本でした。
「何かが現れる領域」は無限にある、という法則は、この上なくポジティブな存在論です。
自分の「存在」が無価値に思えた時、それは、その特定の領域で、「自分が無価値なものとして現れている」だけです。
他の領域では、きっと、自分は素晴らしい価値のあるものとして現れるはずです。
また、自分が「全ての領域」で無価値である、という言葉には、意味はありません。
なぜなら、「全ての領域」というもの、つまりworldは存在しないからです。
全ての否定は相対的です。
さらに、サンタさんが存在するかの問題についても、明確に答えられるようになります。
「サンタさんはいるよ」
「サンタさんはいないよ」
どちらを答えてもオッケーです。
前者は、想像という「何かが現れる領域」に現れている、という意味で正しいです。
後者は、物理化学的な空間という、「何かが現れる領域」には現れていない、という意味で正しいからです。
生きる意味についても、はっきり答えられます。
無限にある領域の中で、一つにでも、生きることが輝いて現れていれば、生きる意味は「存在」しています。
world=全ての領域を貫く領域が存在しない以上、絶対的な肯定も否定も存在しません。
全ての肯定や否定は、特定の「何かが現れる領域」に向けられたものであり、全て相対的なものにとどまるからです。
そのことを受け入れればオッケーです!
お読みいただき、ありがとうございました。
次回以降は、new realismの応用編として
第4章 自然科学
第5章 宗教
第6章 芸術
第7章 テレビ
を読んでいきます。
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