ハイデガー「存在と時間」入門(4)

はじめに

2373noteをご覧いただきありがとうございます。

今回は「第4章 本来性と非本来性は何を意味するか」の前半を読んでいきます。

前半のテーマは、非本来性、つまり、私たちの日常的な生き方、真正ではない生き方です。

ひと=頽落した現存在

「ひと」とは、現存在の日常におけるあり方です(p243)。

そして、この日常的なあり方は、頽落、すなわち、自分自身の可能性と向き合うことから目を背け、世界に没入するという態度によって引き起こされています。

何か堕落した状態が頽落なのではなく、日常的なあり方自体が頽落だというのがポイントです(p268)。

詳しく分析します。

現存在の本質は、開示性にあるので、「ひと」という存在も、その開示性から分析していきます(p256)。

私たちは、日常、どのように世界とおのれ自身に関わっているのでしょうか?

その特徴は、「おしゃべり」、「好奇心」、「曖昧さ」です。

「おしゃべり」とは、語られた存在への一次的な存在関係を失い、その存在者について語られた事柄だけを受け売りして、言い広めることを言います。

聞く者は、伝達された語りを、そこで語り出された言葉のうちに含まれている「標準的な了解」にしたがって、すなわちその語りの主題を根源的に理解することができなくても、おおよそ理解することができます。(p257)

そこでは、語りの主題は、ただおおよそ、うわべだけしか理解されていません。(p258)

噂話が典型的ですね。

時に私たちは、会ったこともない人の、見たこともないことについて、延々と話し続けていますが、お互いの理解は所詮うわべだけのものに止まります。

「好奇心」とは、何事かを配慮するために接近するのではなく、接近するために接近することを言います(p259)。

突き詰めるためではなく、ただ気になるから飛びついて、すぐにまた別の新しいことに飛びつくことです。

「曖昧さ」とは、おしゃべりと好奇心によって、物事の真の了解ができなくなることを言います(p260)。

おしゃべりは、直接関わりのないことについて、うわべだけの理解に基づいて話すことを意味しました。好奇心は、直接関わる気もなく、ただ気になるから近づいて、すぐまた別のことに移っていくことを意味しました。

この二つが合わさると、物事を真に了解することができなくなってしまいます。

それでは、これらおしゃべり、好奇心、あいまいさという開示性の特徴をもたらすメカニズムは何なのでしょうか?

それは、「誘惑」と「気休め」です(p264)。

「ひと」は、外からではなく、自分自身によって、おしゃべりをするように「誘惑」されています。

自分自身によって、というのがポイントです。

「気休め」とは、自分が充実した生を営んでいると思い込むことです。

この思い込みによって、「ひと」は、自分自身がどう生きるか、ということからは目を背け、世界についての情報を集めたり、自己分析を行ったりします。

自己分析というのは、一見自分自身と向き合っているように見えますが、その実態は、自分自身の可能性とどう向き合うか、という問題から逃げ、自分を分類することで満足しています。

このような状態を自己疎外と言います。

そして、このような誘惑と気休めは、常に間断なく生じています(p265−266)。

これを、旋回運動と言います。

まとめ

以上、現存在の非本来的な存在、頽落について見てきました。

お読みいただきありがとうございました。

次回は、第4章の後半を読み進め、現存在の本来的なあり方について、理解を深めていきます。


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