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ハイデガー「存在と時間」入門(5)

はじめに

2373noteをお読みいただきありがとうございます。

今回は、第4章「本来性と非本来性は何を意味するか」の後半を読んでいきます。

後半のテーマは「本来性」、人間の真正な生き方です。

結論から言うと、人間の真正な生き方は、「死への先駆け」「覚悟」において、自らの置かれた状況に向き合って生きることです。

それでは、さっそく、読み進めていきたいと思います。

死への先駆け

は、現存在の存在(実存)を規定する上で不可欠です。

「現存在の存在は死によって完結するのだから、この死という終わりこそが、まさに現存在の全体を境界づけるものである。したがって、現存在の全体存在を解明するためには、死を実存論的に規定しなければならない。」(p275)

現存在は、日常において、死とどのような形で関わっているのでしょうか。

現存在は常に、「他ならぬ自分自身の、死へと関わる存在を自分自身に対して隠蔽する」ように誘惑しています。(p284)

また、「気休め」によって、生への自身を抱き、死につつある者に対しては、彼が死を免れて、必ずや元の日常へと復帰できるだろうと言って慰めます(p284)。

その結果、死は恐怖、逃げるべきものという情態として開示されます(p285)。

そして、自分自身はまだ死なないと言い聞かせたり、死ぬまでにはまだいろいろなことができるだろうと思ったりすることによって、その確実性や未規定性を否認して了解します(p287)。

それでは、これと対比される、本来的な死との関わり方とはどのようなものでしょうか。

それが、「死への先駆け」です。

まず、死とは、「他ならぬ自分自身の、他から隔絶された、確実でありつつ、またそのようなものとして未規定の、追い越しえない可能性」と規定されます(p287)。

追い越しえない、というのは、現存在は死によって消えてしまうので、死の後には存在できない、という意味です。

死の先駆けとは、現存在の可能性としての死をこのようなものとして引き受けるということです。

そうすると、現存在はどのようなものとして了解され、開示されることになるでしょうか。

死は、自分自身で引き受けなければならない以上、現存在は日常的な配慮から切り離され、単独化されます。

また、死は、追い越せないので、「おのれ自身を放棄することが実存の究極的な可能性として自分に迫っていること」が明らかになります。

その結果、「自己放棄」の可能性が了解され、現存在は「脈絡なく押し寄せてくるさまざまな可能性に我を忘れた情態」から解放され、「無私」の行為の可能性が開かれます(p293)。

以上が死の先駆けの議論でしたが、その背後には、キリスト教学があります。

キリスト教学では、「死ぬことによって生きる」という態度が説かれています(p294ー295)。

ルカによる福音書「もし人がわたしの後から来たいと望むならば、自分自身を否み、日々の自分の十字架を担ってわたしにしたがって来るがよい。実に、自分の命を救おうと欲するものはそれを滅ぼすだろう。しかし、自分の命をわたしのために滅ぼすもの、そのものこそそれを救うだろう。」

カルヴァン、将来の生につての瞑想「死を求める熱心の燃えて絶えずそれを瞑想し、将来の不死の故にこの世の生を軽んじ、これが我々を罪の隷属の下においていることを思い、主が良しと見たもう時にはいつでも放棄できるように願うべきである。」

ハイデガーは、このようなキリスト教神学でしばしば語られてきたモチーフを「将来の生」や「不死の生」と言った神学的要素を取り除き、実存論的に解釈しようとしたのです(p295)。

覚悟

現存在はどのような存在状態(実存)をとることで、現実的に、死への先駆けに至るのでしょうか(p328)。

それが、覚悟です。

覚悟とは、良心の呼び声にしたがって、現存在の負い目、虚無性を了解することです(p314)。

良心とは、現存在自身から発せられる呼び声です(p302)。

この呼び声は、自分の期待や意思によるものではなく、沈黙という態様で行われます(p303)。

神の啓示に近いですね。

しかし、神ではなく、現存在が発しています。

この呼び声は、現存在の負い目=虚無性を現存在に対して開示します(p306)。

負い目=虚無性とは、現存在の被投(自分自身のあり方を受け入れていくしかないこと)、企投(特定の可能性を実現することは、他の可能性を捨てることになるということ)、頽落(自分自身と向き合うことから逃避すること)の開示です(306−308)。

覚悟とは、このような良心によって開示される、おのれ自身の負い目=虚無性と向き合うこと、「黙秘しつつ、不安をいとわず、他ならぬ自分自身の負い目ある存在へとおのれを企投すること」です(p314)。

このような覚悟を、実存の真理とも言います(p315)。

覚悟において、開示性は次の形をとります。

了解としては、「個々の存在者との皮相な関わりを脱し、その存在者に対する根源的な関係を引き受けることがおのれ自身の可能性として理解され」ます(p312)。

うわべだけの説明で満足するのではなく、実際に関係を取り持つということですね。

情態としては、おのれの現存在が他から切り離されて単独化されるという不安に耐え抜く態度、「不安に対して心構えができた情態」になります。(p312)

語りとしては、良心の呼び声に対して、談判、取り引きをせず、黙秘によって応答することになります(p313)。

「良心の沈黙の語りかけに対する正しい応答は、黙ってそれに従うということなのである。その際、ひとの様々な助言や勧告、世間の目はもはやどうでもよいものとなり、自分が良心にしたがっていることをあえて周囲に誇示する必要もなくなる。このようにして、黙秘は一つの小賢しいおしゃべりから言葉を取り上げる」(p313)

これが覚悟であり、実存の真理です。

では、このような覚悟を持った現存在は、物事や他者とどのような関係を取り結ぶのでしょうか。

事物に対しては、皮相な、標準的な、日常的な了解ではなく、根源的な存在関係を結ぶことになります(p318)。

先入観を拝して、目の前のものをきちんと観察し、理解し、活用するという、科学的、学問的な態度のようなものを意味しているようです。

他者に対しては、「共存在する他者を他者自身に備わる、他ならぬ自分自身の存在能力において存在させる可能性を与える」、「他者の良心となる」ことで、本来的な共同性を取り結ぶことになります(p320)。

ちょっとよくわかりません。

もし、哲学を人生論と捉えるなら、他者との関係の本来的なあり方、つまり「本来的な共同性」は極めて重要なポイントとなりますが、本書ではあまり深く触れられていません。

さて、このような、覚悟によって開示される「場」、を「状況」と言います。

覚悟は、実存の空虚な理想を目指すものではなく、現存在を「状況へと呼び出す」もの、つまり、自分独自の状況を引き受けようとする態度を意味します(p324)。

それゆえに、「存在と時間」では、「具体的な行動の指針」は与えられません。

「覚悟とは、ひとが与える指針を離れて、各自が決してい一般化することはできない自分固有の状況を引き受け、そこにおいて、なすべき振る舞いを選択する態度を意味する」(p323)。

「何か確固たる指針を求める・・・態度の根底には、現存在の存在様式とは与えられた規範や法則を満たすこと、何らかの価値を実現することだとする見方が潜んでいる。」(p323)

しかし、これは、現存在の固有性を誤認したものであり、頽落に他なりません。

自分の固有性と向き合う「道」を示し、安易な一般論、空虚な理想は説かないという点が、哲学が単なるハウツー本と違うポイントです。

まとめ

本来性とは何か?というのが今回のテーマでした。

ハイデガーの答えは、死への先駆けを行い、自分自身の存在の虚無性を受け止め、覚悟して生きるということでした。

覚悟して生きるとき、物事とは本源的な存在関係を、他者とは本来的な共同性を取り結ぶことになります。

お読みいただきありがとうございました。

次回は、第4章最後の「時間性の議論」と、「第5章 『存在と時間』はなぜ未完に終わったか」を読んでいきます。

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