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第106回 筑波嶺(ね)の峰より落つる男女(みなの)川

陽成上皇の崩御後、師輔はある命令を出しました。
「陽成院の歌を全て焼却せよ」
陽成上皇は、少年時代に蔵人だった在原業平から和歌や相撲の薫陶を受けています。相撲は16歳の時、相手をしていた乳母子が事故死してしまってからしなかったかもしれませんが、歌合は晩年まで催していました。ですから多くの歌が残っていても不思議ではないのに、何と上記の『百人一首』第13番の歌1首しか伝わっていません。
「筑波嶺の峰より落つる男女川 恋(こひ)ぞつもりて淵となりぬる」-男女川が次第に水量を増やして深い淵となる様に、私の恋心も積もり積もって淵の様に深くなってしまいましたよ。
これは寛平8(896)年9月、皇太后高子(当時55歳)が護持僧と密通しているとして廃后にした時、怒り狂う陽成上皇(当時29歳)をなだめるために恐らく菅原道真の献策で、宇多天皇の妹・源綏子を内親王にして娶せたものです。業平の意味深な歌の影響を受けているのか、筑波山というのは歌垣ー歌の後、男女が交歓するーで有名な場所です。

ところでよく奇跡的にこの歌が残ったものです。『後撰集』所収とあり、これは村上天皇が父・醍醐天皇が『古今和歌集』を撰進させたのに倣って、951年頃、梨壺の五人(源順・大中臣能宣・清原元輔・坂上望城・紀時文)に命じ、古今集約1100首を上回る約1400首を収めました。別当は師輔の長男・伊尹(これただ・これまさ)です。
この誰かが「筑波嶺の」の歌を入れたのでしょう。もちろん「詠み人知らず」として。最大の可能性があるのが紀貫之の子である時文です。貫之は業平を敬愛し、業平と懇意だった陽成院に同情していた?
ところが天徳4(960)年5月に師輔が亡くなった後の9月、内裏は焼亡し、せっかくできた『後撰集』も灰燼に帰してしまいます。そして控えを元にまた急遽作り直されたのですが、そこで師輔もいないのを幸い、「陽成院」と明記したのではないでしょうか?別当の伊尹は黙認したか、見落としたか?あるいは師輔は陽成院を貶める事を伝えていなかったのでしょうか?

そして鎌倉時代に、藤原定家が『百人一首』を選ぶ時、陽成院のこの歌を入れて現在に至っています。
「陽成院の狂疾・奇行」は本やネットに多く残っており、「乳母子をなぐり殺した・囚人を裸にして塔の上で射殺・女官を縛って池に投げ溺死させる・小動物を殺し続ける・・・」など大変です。そして「嘘も百回つけば本当になる」の通り主流として信じられています。
今から50数年前、歴史が好きになりかけた小学6年生の頃でしょうか?私は改めて『百人一首』に陽成院の歌があるのを見て子供ながら憤りました。「何であんな悪人の歌を」私も勿論洗脳されていたのです。選んだ定家の真意は何だったのでしょう?
その後、大学で「陽成院は無実である」という角田文衛先生の論文を読み、転じました。
『伊勢物語誕生』を出版したり、毎年、講演の場を設けて、陽成院無実論としての『伊勢物語』をしていますが、私は余りにも非力です。今年も2月に明石市の「みんなの学校」でやりましたが、『伊勢物語』は不人気で参加者は8人でした。
聴かれた方は一様に「へーえ」と驚いていましたが、でも今までには「だから何なの?」という感じの方もいて・・・
別に皇統を陽成院の子孫に戻せなどと言っているのではありません。しかし白を黒にするというか、善人を悪人にし、悪人が善人として扱われている不条理を歴史を愛する者として許す事はできないのです。(続く)

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