【遅いインターネット】カリスマ教師とフェイク教師
2020年2月20日宇野常寛さんの新刊「遅いインターネット」が発売された。
スマホと4Gの普及によって誰しもが色んな情報を得て、発信できるようになった。情報を得るだけの消費者ではなく、さらに発信することで、より深く、より多角的に物事を考えられるようになるだろうと思われていた。しかし、残念ながら「バカッター」「炎上」という言葉が知られるように深く多角的に考えるどころか“脊椎反射”で“浅く“発信する人が後をたたない。
つまり、インターネットを使うことで”思考停止“してしまい、叩けそうな人に石を投げてストレス発散をするためにしか使えない人が増えてしまっている。そこで本書ではこのインターネットが普及した社会でどのようにインターネットと付き合っていけばいいか、その距離感と進入角度を考える内容となっている。
この記事では、自分自身が本書を読み考えたことを書いていきたいと思う。それの第2弾である。
サッカー界のカリスマ「リオネル・メッシ」
リオネル・メッシをみなさんご存じだろうか。
泣く子も黙るサッカー界、スポーツ界のスーパースターだ。メッシは凄い。残している数字も凄ければ、チームの戦績もプレーの華麗さも何もかもが凄い。しかも長期離脱も記憶にないということはケガもしない。おそらく多くの人に同意を得ることができるのと思うので、ここでその凄さを映像やデータを張り付けて示すことはしない。
なぜメッシは凄いのか。それはサッカーがうまいから、チームが勝ちまくるからであるが、それだけではない。
彼は欧州サッカーという世界最高峰のサッカーの舞台において誰よりも自由にプレーしているように見えるから。
「制限からの自由」
これは人間にとっての憧れである。サッカーは「足でボールを扱う」「ゴールが決められてる上に目の前にはディフェンダーにゴールキーパーまでいる」という自由にさせない制限がある。しかも欧州リーグともなればそのプレッシャーもハンパない。そのなかであんな小さい選手が左足中心でひらりひらりと相手をかわしズドンとゴールを決める。こんな快感他にあるだろうか。その姿に観客は魅了されるのである。
カリスマは制限があるから輝くことができる
こう考えるとメッシがカリスマであるのは欧州サッカーの舞台そのものともいえる。その舞台が厳しければ厳しいほどその輝きが増すのである。ゴールが広くなり、敵が減り、プレスが弱くなればあれだけの輝きを放つことができないだろう。松井稼頭央のオールスター4盗塁は捕手が古田敦也だったから価値があるのと同じである。
カリスマ教師と呼べるような同僚が何人かいる。その先生は結果を出す。それだけでなく「生徒の意識を高める」「生徒がその教科に魅了される」「生徒の優先順位がその教科になってしまう」という共通項があり、自然と人が集まっていく。もうジェラシーしかない。
その先生は目の付け所と語り口に芸がある。そして「ふつうはこう考えられがちだけど・・・」的な感じで話が始まり、自分の世界に引き込んでいく。つまり一般的な考え(タイムラインの空気、世間の常識)を踏まえたうえで、オリジナルの理論を展開する。だから置いてけぼりを食らわない。そしてその切り口が気持ちいいので納得してしまう。
何が言いたいのかというとカリスマ教師というのは生徒の抱える「制限(不自由)」から「自由」になるための夢を抱かせてくれる存在なのではないかと思う。それは具体的な問題や単元に限らず生き方そのものにも当てはまる。「この人についていけば俺のこの人生なんとかできるかも」と深層心理で思わせてしまうエロい存在なのだ。ジェラシーしかない。
フェイク教師
対してフェイク教師である。これは「このままいけば俺は”品川庄司の品川”で終わるな」と怖くなったときにできた自分の中での単語である。何が言いたいかというと流行りに乗ってはじめるが、やり込む前にマウントをとったりしてくるあの感じだ。
つまりやることなすことマウントを取るためのアピールプレイ。承認欲求丸出しオジサンである。思春期までならいいけど、教師がそれではいけない。教師がマウントを取るとき、それは「自分は偽物です。本当の自信がありません。そこまでの努力をしてません」と宣言しているようなものだ。(これは怒鳴るとも少しちがう。危険なことをしたときにまず大きな声でやめさせることは必須である。そんなときに語りかけてはいけない。語りかけるのはその後の指導時である。)
生徒も馬鹿ではない。そんなフェイク野郎はすぐ見抜く。そしてスルーしつつSNSでやり玉にあげられるか、ほかの教師に聞こえるように悪口を言う。耳に入った教師も「まあ、そう思うのもムリないわな」という感じでスルー。そして飲み会のネタになる。という負のループが展開される。
フェイク教師の特徴は質問を2つか3つすればすぐわかる。自分の頭を使って話しているのではなく「誰かの良さそうな話」をコピー&ペーストで話しているだけなので突っ込まれたら何もない。本物は顕微鏡の解像度を上げれば上げるほどその奥に新しい世界が広がっている。ここが決定的に違う。
だからこそ「速いインターネット」ではなく「遅いインターネット」
フェイク教師の”痛さ”は先ほど説明した。これはタイムラインの空気を読んで「いいね」「リツイート」を稼ぐためにせかせか行動している人と言い換えることができる。
流れてきた情報をすぐ発信する。誰かが言ったことをコピペで自分のことのように発信してしまう。それで結果はでないと「ここではないどこか」を求めていく。そうした結果、ツイッターの自分の書き込みは引用リツイートだらけ。結局「いいね」「リツイート」してくれるのは、同じようにインスタント的に承認を満たしたい人同士になっている。ホリエモンのツイートは気になるけど「まじ大学行くやつの気が知れない。プログラミングなら・・・」というコメントの最後にホリエモンのユーチューブ動画貼り付けというテンプレートを何度見てきたことか。。。おまえ本当に大学行かずにプログラミング勉強したんか?ソレを地でやってるのキメラゴン君ぐらいしか知らんけど。
そういう感じでホリエモンの言葉に乗っかってマウントをとるツイートは品川的であり、思考停止的な行動であり、所謂「速いインターネット」である。
そうではなくて、まず自分でやってみて自分の体験だけを書いてみる。SNSとの距離の取り方や扱い方はR25のインタビューで宇野さん自身が語っている
ひとつめの武器は、「人についてはSNSで書かない」と決めること。
「ホリエモンがいいか、悪いか」には一切触れずに、「ホリエモンの語ってるシェアリングエコノミーがどうか」についてだけ書いてみるようなイメージです。「人ではなく、モノやコトについて書く」という縛りのなかでTwitterをやってみてください。これだけで、全然変わりますから。
あと、ここで肝心なのが「人」には「自分」も含めてください。
こういうことを意識することで少しでも建設的なことがツイートできるようになりそうである。(自分も目が覚めました)
フェイクからの脱却
これは修行するしかないということが現在のところの答えである。師匠を見つけ、見よう見まねで体を動かしながら内省していく(ツイートでもいい)、その中から自分の型やフォームを身につけていく。
また、目の前の壁を「引き受けて考える」ことで乗り越えようとしていくことである。だれかに任せてブーたれるようでは何も身につかない。これは宮台真司さんから学んだことだが、とても大事な発想だ。
これらは時間がかかる。最短距離で進むことが不可能だ。進んでいても引き返すこともあるだろうし、蛇行することも休憩することもあると思う。でも、そんな感じで”遅く”なってもいいのではないか。色んな角度からものごとを見て、自分の頭で考えていくことがフェイクから脱却することにつながる。それが自分の中での「遅いインターネット」である。
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