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ひとりぼっちの宇宙人─ウルトラセブン視聴記─ 盗まれたウルトラアイ

ひとりぼっちの宇宙人 2021─2022版
─シューチョの『ウルトラセブン』視聴記─
第37話「盗まれたウルトラアイ」[A]


──本稿の[2.「盗まれたウルトラアイ」]の節は、『紀要 ウルトラマン批評』第8号(神谷和宏 編集&代表、2011年)所収の拙稿「ダンとのダイアローグ(二)」の一部がそのもとになっています。──
 

1. 盗まれるウルトラアイ

『ウルトラセブン』において、ウルトラアイという道具が活性フィクションとして十分に機能する場面がしばしばあります。「道具による変身」という設定が作品世界の中で必然的に活きる形に描かれるということです。

初期クールの「湖のひみつ」「マックス号応答せよ」では、変身アイテムを奪われ、さあどうする…という形で出ます。『ウルトラマン』でハヤタはベーターカプセルを奪われるのではなく自分でよく落とします。これらはいずれも、変身ヒーロー物の「変身アイテムを取り戻す(までのピンチ)」という定番のストーリー展開を与えるツールとしての活用です。

特に同一型のダン=セブンにとって、ダンからセブンへと本来の姿に戻るための「命綱」であるウルトラアイが手元から無くなるという事態は、陳腐な展開に留まらない意味を持ち得るはずです。事実、中後期クールでその活性フィクションは深まっていきます。「零下140度の対決」では吹雪の中の紛失─発見が描かれました。それ自体は(変身アイテム自体は何であってもさほど違いはない)定番展開の一種といえますが、描かれ方には奥行きが生まれています(→注1)。そして、その名が挿話名にも冠され直接のテーマになった本話での表出は、まさにそれが物語の要となります。

2. 「盗まれたウルトラアイ」

ダン「聞こえるか。僕がわかるか?」
マヤ「誰?地球人ならテレパシーは使えないはずよ。……わかったわ。あなたはセブンね」
ダン「ウルトラアイをなぜ取った?」
マヤ「それが私の任務だもの。」
ダン「なに?…地球を侵略するつもりなのか。」
マヤ「こんな狂った星を?見てご覧なさい、こんな星…。侵略する価値があると思って?」

地球の雑踏での宇宙人同士の一対一の交信、恒星間弾道弾による地球爆破をセブンに阻止されぬようその出現を防ぐマヤの役割、そしてマゼランが地球を爆破する理由。これら本話の要点が、すべてこの短い一度めの対話の中に凝縮されています。そして、二度めの対話が彼らにとっての最後の対話となります。

マヤ「この星の命も午前零時で終わりです」
ダン「君も死ぬのか」
マヤ「私は仲間が迎えにきてくれるわ」
ダン「(作戦室のコンピュータが打ち出したメッセージを掲げ)誰も来ない。君は初めから見捨てられていたんだ」
マヤ「…(メッセージを確認し呆然とする)…」
ダン「この星で生きよう。この星と一緒に」

自分の運命を悟ったマヤはダンにウルトラアイを差し出します。直後に変身音が鳴り響きますから、ダンはこのとき唯一、人の手によって変身したといえます(→注2)。ウルトラアイが「ひとり死す者」から「ひとり生きる者」の手へと戻ることによって、地球人類の運命も死から生へと転じました。セブンとして弾道弾の反転に成功したダンはマヤのもとへと駆けつけるも、そこには彼女のブローチが残されるのみでした。

「なぜこの星ででも生きようとしなかったんだ。僕だって同じ宇宙人じゃないか」とダンのモノローグはつぶやきます。君も僕も同じ《ひとりぼっちの宇宙人》じゃないか、と…。しかし、地球という星に、陽光の照らす守るべき美しさを見い出すダンと、そこに住む人間の頽廃という陰の側面を見て忌むマヤ。二人の認識は大きく乖離していて、マヤがダンの最後の呼びかけに答えず死を選んだことには一つの道理があります。地球/人類を間に挟み、その正と負の両側から向かい合った二人の孤独な宇宙人。彼らは、ウルトラアイを介してつながりえました。だからこそ、それがダンの手に返った時が二人を分かつ時でもあったのです。

3. 盗めないウルトラアイ

このように、本話はその名の通り「ウルトラアイの物語」といっていい挿話です。

本話に表れるこの「ウルトラアイの活性フィクション」について、また、本話以外でも大小様々に度々表れる個々の「ウルトラアイの活性フィクション」についても、ウルトラアイを変身アイテムとして設定した時点ではまだ具体的に意図されてはいなかったでしょう。ウルトラアイというものの活性フィクションの泉は、後になってこうして見出されていった、と考えるのが自然です。すなわち、「変身道具をウルトラアイというものにすれば、これこれこういった場面が描ける、これは優れている、だからそうしよう…」という流れではなかっただろうということです。ウルトラアイの形態やそれを用いた変身法の具体性。設けられたその設定自体がまず優れた魅力的なフィクションであり、だからこそそれに端を発したインスピレーションを脚本家や監督や演者が得て、予め意図してはいなかった様々な活性フィクションの場面が生まれていったのだろう、と推測します(→注3)。「設定が必然性を獲得するような優れた挿話」が生まれたし、また逆に「優れた挿話が必然的に生まれえるような優れた設定」であったのです。その間に予め意図的なつながりがあったかどうかは(まったく)重要ではありません(→注3)。ウルトラアイという活性フィクションは作者の意図から独立した価値を持つのです。「変身の小道具がウルトラアイである=赤い着眼具をかざして構え、両眼に装着して変身する」のは『ウルトラセブン』だけであり、それは、他の作品で他のもので代用したり焼き直したりして「まね」することのできない、つまりは「盗めない」独自の価値であるということです。

「大小様々に度々表れる個々の」ウルトラアイの活性フィクションとしては、本話での表出の他に「ノンマルトの使者」「史上最大の侵略」の二話での表出がとりわけ重要でしょう。それぞれの「変身」というフィクションに関わる名場面において、まさに、ウルトラアイが、ダンからセブンへの変身が他の様態ではなくそれによって為されればこそと思えるような“表象の要”として改めて焦点化されます。これらについては、いずれまた。

さて、ウルトラアイに限らず、一般に《活性フィクション》とは「意図的でないものも拾う」概念であり、「作者の意図から独立していながら、それでいて作中で必然性を獲得しているような物事、およびその物事の価値」のことを言います。ここが活性フィクションの活性フィクションたる所以であり、作者の意図こそがしくみの中心となる“伏線”概念との一番の違いです。意図とは独立に自ずと立ち現れるもの。もちろん、そういう必然的な個々の運びを生み出しえたのは作者ですが…。《活性フィクション》とは、「登場人物が一人歩きし出す」としばしば作家によって語られるような、そこの部分の主語を「人物」に限定せずに、劇中の物事すべてにわたってそういう可能性を考えたものでもある、ということもできそうです。

小説家は予定調和を嫌うようですし、一般にも「予定調和」という語句は創作に対してはマイナスの意味で用いられることの方が多いようです。が、活性フィクションは、広義に分類すればまさにその「予定調和」(のプラス面を示す)一種である、とも説明できます。


注1:「零下140度の対決」でのウルトラアイ紛失は前後の展開からはむしろ必然でないようにも見えます。つまり─少し「作者の意図」論に立ち入ると(頭掻)─脚本の尺を埋めるためだったのか、だとしても、やはりこの重要挿話でウルトラアイをしっかり顕現させたかったからこの埋め方になったのではないか、ウルトラアイのアップのカットを入れたかったからその紛失という流れを差し込んだのではないか…と、活性フィクション論の観点からはいろいろと想像できるわけです。

注2:実際には、マヤは着眼面を自分の方に向けてダンに渡しています。それは承知しつつここではこう表現してみました。

注3:「予め意図されていた」ことを示す証拠や資料があるのかどうか少なくとも私は知りません。…意図されていたならもちろんすごい。でも私は「意図されていなかったのならそれもまたすごい」と考えますし、さらに事実を知らぬままやや言い過ぎておくと「意図されていなかったからこそすごい」という気持ちが私にはあります。

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