外在ーひとつの生


 無記名の、無所属のひとりの人間、立場も、役割りもない人間が書く文章を誰が読むのだろうか。それは壁に書かれた匿名のいたずら書きと変わらない、意味のない文字の羅列と考える人もいるだろう。その文章や文体、言葉やその間や拍子に魂が宿ると信じる人ならば、その文章の意味から魂が、そこに宿るのを見るのかもしれない。考古学者のように、その痕跡から、その人間が過ごした生活を、社会を、読み取ろうとする人にとっては、個人と集団がおりなす人間の文化を意味するのかもしれない。
 しかし、そこに個人の生は無い。ただ残された文章と、ひとりの人間は同じものではない。ひとりの人間の文章、それは文化の痕跡でもなければ、魂の存在でも無い、ましてや文字の羅列でもない。それは、ただの思考である。限られた、有限の、断片であり、切断された全体でもある。停止したひとつのsérie…
 そして、それが全てであり、書かれた文章それ自体はひとりの人間ではないが、ひとりの人間だったものだ。それは外在していた個人の思考の水路であり、生の縮約であり、主体化された動きが別の形態になったものである。それは魂であり、文化であり、文字の羅列である。在ったもの、既に無いもの、消えたもの、不在、空白、無記名、匿名、空の記号、それは意味そのものであり、その意味は読み手が現われるたびに、顕れる意味が揺れ動く。瞬間と永遠である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?