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『MEN 同じ顔の男たち』全裸男マトリョーシカ

すごくシュールな映画です。
初めはホラーとして恐怖たっぷりに不気味な雰囲気を演出していくのですが、途中からシュールさが恐怖を凌駕する。(監督の意図だけど)

この映画のテーマは明示されず、監督自身、解釈の幅を広くとっているようです。ネットの感想を見て回ると、わたしが見落としていた細かい指摘や、解釈が無数にあって面白かったです。

少し長いですが、以下に監督のインタビューを抜粋。
とても重要な部分だと思ったので。

「それは観客に疑問を持ってもらうためなんだ。例えば、右翼と左翼の人達が論争を開始すると、ほとんどの場合は、どちらかが少し話しただけで、そこから会話がどこに向かうかが分かり、会話が結論に達する前に、お互いに心の中でその結論に反発していると思う。だからふたりが会話して考えを変えるということはほぼない。でも、この映画はいかにしてそれぞれの既成概念を覆し話し合いをできるような場所に持っていくのかに挑戦しているんだ。

監督アレックス・ガーランド

この映画は観客が解釈して初めて完結する、知的なパズルのような映画になっていると思います。この映画について考えることで、自分とは違う、異性の立場や視点を理解していくのです。

異なる解釈に身を置くこと

主人公のハーパーには旦那さんがいるんですが、なかなかこれが厄介なやつで、ハーパーが離婚を切り出すと『そんなことしたら自殺するからな!』と言って、脅してきます。そして本当に自殺してしまうのです…。

そのトラウマを癒すために、ハーパーは田舎の小さな別荘(カントリーハウス)へやってきます。ですがそこで出会う男性たちが、なぜか全員同じ顔なのです。

しかも、ハーパーはそのことに疑問を持たないので、ますます???状態へ。

しかも出会う男性全員が、どこか失礼なところがある。
やたらと不躾な質問をしてくる大家、夫の自殺に対してあなたに非があったのではないですか?と問い詰めてくる神父、生意気な少年(顔はおっさん…)、逮捕した全裸男を釈放してしまう警官。(全員同じ顔で出てきます)

女性にとって見知らぬ男性とは、恐怖の対象であって、だから均質な顔として認識されているのか、あるいは男性はそれぞれ違うんだけど、ハーパーには同じに見えていてそのことに気づかない、狭量さの表現なのか。

正解は男女の立場でそれぞれ違い、そのことに気づかせるための仕掛けなんじゃないかと思います。相手の解釈に身を置く体験というか…。

シュールな物語にすればするほど、観客は一歩引いた視点で人物の行動を眺めることになり、感情的になりがちな男女のテーマを冷静に見つめさせることになります。

ラストシーンでは男から男が産まれて、その男からさらに男が産まれたと思いきや最終的に死んだ旦那さんが出てくると言う全裸男マトリョーシカが繰り出されます。(ほんとですよ)

この時産まれてくる男たちは、みな一様に足が折れ、手が裂けており、夫が自殺した時の傷をなぞっています。俺はこんなにも傷ついた!とこれみよがしに見せつけてくるのです。しかし最初の方こそ恐怖に駆られていたハーパーも、ラストでは傷だらけの旦那(MEN)を醒めた目で見つめる姿で終わっていて、彼女の心の中で一つの決着が見られる。

「わたしから何が欲しいの」
「愛」
「そうね…」

考察を促し、相手の気持ちを推し量ることそのものが、監督の目指すところだと思います。

キリスト教から民間伝承へ(私的解釈)

冒頭のシーンでカントリーハウスにやってきたハーパーは、庭の木からリンゴをもぎって食べてしまいます。わたしは素直に聖書の話を思い浮かべたので、改めてアダムとイブの神話を調べてみました。

神様から食べてはいけないと言われた木の実を、蛇にそそのかされたイブは口にしてしまい、アダムにも分け与えてしまう。そのことが神様にバレ、罰を下されてしまうのですが、その時にイブが受けた罰が『妊娠、出産の苦しみを背負うこと』なんだそうです。

ハーパーの夫は「神様の前で結婚を誓ったじゃないか!それに嘘をつくなんて!」みたいな感じのセリフを言ったりしていて、ハーパーも夫の自殺に対して、自分に非があるのではないか、という負い目を感じており、罪を背負って物語に登場してくるわけです。キリスト教的な世界(野生とか性的なものから切り離された世界)に住んでいるんだと思います。

信心深いとか、教徒とかじゃなくて、一般的な生活様式がキリスト教というか、日本人も知らず知らずのうちに仏教の生活様式が入ってたりするじゃないですか。あれです。

そしてこのキリスト教と対比するように、民間伝承に出てくる二つの存在が登場します。そしてこれらが、ハーパーの中のキリスト教的な世界観を破壊する。そういう映画なのではないかと考えてみました。

作中の全裸男は、グリーンマンと呼ばれるキリスト教以前から存在した、いわば妖怪みたいなもので、それをモチーフに造形されたキャラクターです。たんぽぽの綿毛を飛ばしてくる謎のシーンがあり、種を植えるもの(男性)として描かれているようです。

そしてもう一つ、シーラ・ナ・ギグと呼ばれる女性のあそこを大胆に象ったレリーフが出てきます。

ハーパーは潔癖というか、男性に対して生理的な嫌悪感を持っていて、それが同じ顔の男たちとして現れてくるし、数々の生殖モチーフが随所に置かれる理由だと思います。禁欲的なキリスト教の世界にいる状態です。

それをグリーンマンが破壊し、最終的にはグロテスクなイメージを見せられても平然としていられるような態度へと至るのではないか。シーラ・ナ・ギグのごとく、開放的でパワーに溢れ、おおらかな存在、プリミティブな性を彼女の中に再生させる映画なのかもしれない。

映画、一回見ただけなので、だいぶ妄想かもしれない。

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