『バビロン』 映画愛に見せかけた、反(アンチ)映画。
名作オマージュな脚本
この映画を見たとき、脳裏にいろんな作品がちらついた。
ストーリーに関しては、『市民ケーン』や『甘い生活』など古典的作品へのオマージュが多く、目新しさは感じなかった。
(現にアカデミー賞では脚本賞にノミネートされていない)
冒頭のパーティーとヒロインとの出会い、それから死体を気づかれずに
持ち出すサスペンス。
ギャンブルの金を返しに行って、マフィアに命を狙われるラストシーンなど、シーン単位での面白さがあった印象です。
『熱狂』を再現するサントラ
最も高く評価されているのは音楽で、チャゼル監督のデビュー作から音楽を手掛けるジャスティン・ハーウィッツがサントラを手掛ける。
彼らのアプローチは1920年代のジャズを参考にする訳ではなく、その時代にジャズという最先端の音楽が、民衆にとってどのように受け取られたか、という精神面のリアルさに振り切っている。
ちょうど湯浅監督の『犬王』のアプローチに似ている。
『バビロン』におけるサントラは20年代のジャズではなく、ロックに近いサウンドなんだそうです。当時の音楽を使わないことで、かえってその時代の熱狂を再現できるというのも、映画ならではのマジックかもしれません。
ブラピと同等の存在感を示した新人
本作は群像劇的で、主役が約三名います。
ブラッド・ピットとマーゴット・ロビー、そしてディエゴ・カルバ。
正直ブラッド・ピットなんかよりも、ディエゴ・カルバという無名の新人俳優の方が存在感があった。ベテランと渡り合ってました。
彼が演じるマニー・トレスは映画業界を夢見る青年で、パーティーで出会ったネリー(マーゴット・ロビー)に自身の夢を語るのですが、そこのセリフがめちゃくちゃピュアです。
ジャック・コンラッド(ブラピ)のセリフにも同様のピュアさを感じる場面が。
みんな赤裸々に夢を語る。
チャゼル監督の素なのかもしれない。このピュアさ。
テーマのなさ。反映画
『バビロン』の最終的な着地点は、映画の作り手が映画を通してその歴史の一部となること。映画の中で人々の記憶に永遠に留まること。だといえます。
この決着はとても内面的なものですよね。古い世代を一掃しようとか、反骨精神とかじゃないんですよ。むしろ最後の名作映画たちが映し出されるシーンは、過去の世代と自分も混ざりたいという欲求です。
映画が好きだから映画を撮る。当たり前のことだ。
その当たり前を3時間かけて確認しなければならないほど、アイデンティティが混乱しているのがよくわかる。
格闘すべき敵や、打破すべき因習もないなら、作家が描く題材をどこに求めればいいのか。
映画を作るということに熱狂が失われたら、後に残るのは俗悪なパーティーの残骸のみである。冒頭のシーンがその暗示になっている。
象の糞をかぶるシーンに始まり、次のパーティーでは「デブ君」が女の小便を浴びる場面で始まる。途中ゲロも吐くし、全編を通して汚い。
映画を作るという行為に、排泄のイメージを塗りたくる。
映画史を総括するラストシーンも、映画愛に満ち満ちたシーンでなく、むしろ反映画なのではとすら思えてくる。
サブスク時代になって、映画を見ることは容易になり、ラストシーンに描かれるような一連の作品のタイトルを残らず挙げることができる人も、きっと少なくないだろう。
『バビロン』はそんな映画通(笑)に糞を浴びせる。
おそらく映画ファンであればあるほど、『バビロン』に反感を覚えるのではないか。名作映画の繋ぎ合わせなど、シネフィルアピールしてんじゃねぇ!と見下すのではないか。
映画を撮り、映画を観て感動する主人公マニーは、幸福な円環の中に閉じこもっているようだ。
映画の作り手がタランティーノのようにオタク化していけば、映画の世界は内輪だけの閉じた狭い世界になってしまうだろう。
その結果、映画を撮ることの意味を見失う。
『バビロン』に囚われるのだ。
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