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書評『心の仕組み』スティーブン・ピンカー

そもそも手に取るきっかけは伊藤計劃の小説『虐殺器官』に端を発する。解説のあとがきで、作中のバックボーンとなる理論として紹介される文献の一つに、スティーブン・ピンカー『心の仕組み』があったからだ。ずっと読みたいと思っていた本だったので、念願である。

ピンカーが試みるのは、人間の“心”ーその様々な機能の、科学的な説明である。
知覚、推論、感情、人間関係、芸術、宗教それらがなぜ、人間に備わっているのか、何の役に立っているのか。ピンカーが武器とするのは、『心の演算理論』『ダーウィンの進化論』の二つ。
人間の心は、コンピュータに似た問題解決のための、ある種の情報処理システムととらえられ、それは狩猟採取民であった我々の祖先が、子孫を残し自らの遺伝子を最大化するという目的のために進化、適応したものである。心は複数のモジュールで構成されており、心臓や肺のような専門器官が身体を動かすように、心も心的器官とでもいうべきものの集まりで、思考という演算を可能にする。こうした『進化心理学』と呼ばれる学問の研究成果を一般向けに書き下ろしたのが本書です。

私個人の意見ですと、内容は専門的すぎず、開かれていて、内容に比してわかりやすい部類なのではないかと思います。視覚の認知と、脳のネットワークを解説した章が、読み慣れなかったくらいでしょうか。あとはリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子などの、進化論の復習という感じで、すらすら読めました。


心の演算理論

心の演算理論がどのように人間の心を解き明かすのかというと、まず脳内で行われるタスクを「プロダクションシステム」というコンピュータープログラムのアナロジーで説明する。目のまえの人物の情報を照合するのに、長期記憶に存在する情報を、エージェントが参照し、短期記憶に貼りつけて、場合分けし、条件をどんどん絞っていって、その人物がたとえば、わたしの母親でも父親でも兄弟でもなく、親戚の叔父であるというふうに、ゴールへ導いていく。重要なのは、一見複雑にみえる脳内の推論も、末端の下部組織、フローチャートのはしっこにいけばいくほど、ごく単純な、イエスとノーだけを判断するプログラムにまで還元することができて、その単純で機械的な動作さえ動いてくれれば、小さな歯車が何個も重なって、機械仕掛けを動かすように、脳内の演算も可能になるということ。

このとき、コンピュータはプログラミング言語のようなものを使って、コンピュータにだけわかる言葉=シンボルを使って、命令を実行しますが、人間の場合、コンピュータでいうところのプログラミング言語に相当するシンボルは、知識や信念、願望といった〈情報〉となり、これらはニューロンの配列で記憶されている。

これらのフローチャートを複数のレイヤーにわけて階層化することで、文字を認識して頭のなかの概念と結びつけるというような、柔軟性が求められる思考も可能になる。線と線のエッジを解析する層、字面を解析する層、字体、文字、単語、概念、知識と段々、処理が上にあがっていき、高度になっていくという感じです。

脳の演算は「論理ゲート」と呼ばれる、0と1の電子回路と見ることができ、なおかつこれを各ノードどうしで接続すれば、命題が真か偽かだけでなく、どれくらいの確率で真か偽かを計算できる。目の前の動物が羊かどうか見極めるのに、「これ」か「あれ」かではなく、さまざまな特徴を変数として(毛皮がある、牙はない、四足歩行であるというふうに)どれくらい羊っぽいかで、イエス、ノーを識別できる。さらにまだ、これらの閾値をフィードバックで修正できるような隠れ単位を設定すれば、学習して一般化するという人間の思考に近づくのだ。ということらしい。

しかしこれでも最終問題である、個体識別の問題が解決されない。人間の特徴を見分けるネットワークを構築しても、全て一般化してしまうため、個人の特徴を見分けることができない。それについての説明は、やや反則かと思いますが、渡り鳥が星座の位置を記憶する特殊な脳を発達させたように、人間も個体識別をするための特殊なモジュールを持っているというもの。でも、ポケモンなら無限に覚えられるしな。
なので人間には境界があいまいなものをゆるくグループ化する思考と、厳密にあれとこれを定義する二つの思考が存在するという。

あとおまけに意識の問題も。意識がなぜ必要なのかという謎に対してピンカーは、コスト、時間、エネルギーの制約があるため、意識が必要になるという。意識はたとえば、ものを考えたり、感じたりなど、そうした情報にアクセスできる一方、いま俺の体のなかでキラーT細胞とインフルエンザが闘っている…というな情報にはアクセスできません。全ての情報にアクセスできてしまうと、必然的にコストがかかってしまうし、費用対効果もマズい。演算時間もかかるのでそもそも無意味。なので、注目するべきものを判断する主体として意識が必要になる。

認知革命を解き明かす

人間の脳というものを、とかく神聖視しがちな傾向が存在しますが、突き詰めればそれは生物学的な器官、ゾウの鼻やキリンの首と同じもので、生存に有利なため進化適応したものだ。優れた生命体は必ず知性を発達させているとは限らず、ただ生存するうえでリスクがコストを上回ったため、そのような遺伝子が選択された結果、人間に知性がそなわったのだ。

そして知性の成立に関して、説得力のある説明を提示できるのは自然淘汰だけだ。創造説やラマルク説では不十分で、獲得形質の遺伝がなぜダメなのかというと、有利な形質が遺伝するならともかく、打撲のような不利な形質が影響する範囲の方が広いからである。

生物はなぜ脳を進化させたのか?その理由は単純です。外敵や周囲の環境などなんでも、情報に価値があるからで、これを活かすことができる生き物は生存するうえで大変有利になるからだ。
遺伝子もそのような因子を選択して進化するので、ある程度複雑な脳をもった生き物が誕生する理由も納得ではないだろうか。
面白いのは、進化が学習をうながし、学習が進化をうながす共犯関係にあることで、あえて不完全なネットワークをもつことが、学習の早い個体の選択につながり、知性の発達を促進するというところ。初めから重みづけがされたネットワークを遺伝させようとすれば、遺伝子に欠陥があったとき、歯車が一つ欠けた時計が動かないのと一緒で、無用の長物となってしまう。しかしある程度自分で組み立てることができれば、それを回避できるし、より組み立ての早い者が有利に繁殖することで、さらに脳の発達をうながす。

こうして人間は他の動物よりも大きな脳をもったわけですが、それがいかなる生態学的ニッチへの適応を果たしたのか?
生態系というのは、過酷な生存競争の場、イス取りゲームでもあるので、大きな脳をもつことで、人間はなんらかのニッチに適応したはずである。ピンカーはそれが“認知的ニッチ”だという。新しい知識を発明することや、直観を使ったシュミレーションなど、情報を武器にできたことが最大な適応であったのだ。火や道具、言語、2001年宇宙の旅に出てくる骨の武器など、人類覚醒のきっかけがなんであったかは色々な説がありますが、そもそもそれらを扱うことを可能にする(ハラリは認知革命といっていた)こそが全ての始まりだったのだ。

人間だけがなぜ認知的ニッチに入ることができたのか、それには四つの要因があるという。
一つは両眼を使った立体視が視覚系(なにが)と座標系(どこに)を判断する認知モデルの発達をうながし、それに比して脳も巨大化したこと。
二つ目には、他の個体と集団生活をすることで、協力あるいは裏切りのゲームが促進され、軍拡競争の要領で知能が発達する余地があったのではないかということ。
三つ目は、手が使えること。人間の遠い祖先である無尾ザルが樹上生活で木にぶら下がっていたおかげで、骨格が二足歩行に向けて準備されたのではないかという。
四つめは狩猟ができること。脳はハイコストな器官で、圧倒的にエネルギーを消耗する。狩猟で高タンパクな肉をを入手することができたことが、このハイスペックな器官を運用できた理由らしい。
以上のような点がうまく出揃ったことで、認知革命が起きたのではないかというのが、大雑把な要約です。

本編でいうと第四章以降は、この知見をもとに、視覚、推論、情動、人間関係とそれぞれの要素を見ていく構成になっています。

視覚

人間はどうやって外界を認知しているのか。まず逆光学という考えがあって、物体が網膜で像を結ぶ仕組み、光学は解説できるけど、逆光学、像から物体を解き明かすことが不可能だ。3+3+3=9なのは簡単にわかりますが、9という数だけで、式がなんであるかを割り出すことができないのと一緒の理屈なのだとか。脳がそれをどうして解決しているのかというと、外界に対するある種の前提を設けることで、情報を補足しているのだという。
前提とは、ある物体の表面は同一の色や材質でできている。物体の輪郭は整然としている。といったことで、こうした前提があるおかげで、網膜像と外界を一致させることができる。前提は例えば、二つの平行線があった場合、それは一つの物体の両端である確率が高い。というふうに確率で判断する。(錯覚が存在するのはそのため)

そしてその前提を元に、それぞれ、形状や明暗、色面などを解像するモジュールが協働して、2.5次元画像を作成する。
2.5次元画像とは、奥行きの情報が削ぎ落とされた画像で、人間の認識のモジュールはまずこれを作成する。
本当なら3Dモデルを脳内に作成して、それを元に外界を認識できたら手っ取り早いが、ゲーム好きならわかると思いますが、高精度な3Dモデルはカクつく可能性が高い。処理が追いつかないのだ。それを解決するために、最も計算のややこしい奥行きの情報を落とした2.5次元の画像が使われる。絵を描いてと言われたとき、形は描けても、立体感、奥行きを描くのはなかなか難しかったりします。それは推測ですが、こうした認識システムを採用しているからではないでしょうか。脳内に3Dモデルがあれば、いいのに…。

こうして作成された画像をもとに外界を認識するのはいいのですが、一歩動いたら、景色がズレてしまい、計算し直しになってしまう問題がまだ解決できていない。これにどう対処しているのかというと、準拠枠、マウスのカーソルか、スナイパーの照準器のごとく、景色に基準点を設け、どれだけズレたかを補正しているのではないかという。この準拠枠は物体ひとつひとつにもあって、例えばカバンが、立っていても、横倒しになっていても、それがカバンだとすぐにわかる。脳内に“ジオン”と呼ばれる、簡単な立体のパーツがあって、それを組み合わせて、形状の上下と前後などを記憶しているという。他にも、全体像が分からなくてジオン、立体パーツを組み合わせられないときは、記憶ファイルを作り、イメージを保存し、上下左右が反転した画像を理解するときには、心のなかで画像を動かして、イメージを合致させる。ジオン、記憶ファイル、心的回転の三つのツールを適宜使い分けているそうです。

推論

人間の知能は、自然淘汰による適応によって身についたものではなく、何らかの外的要因で身についた。ウォレスという生物学者が大昔、こうした創造説の一種を唱える。ウォレスはこう考えた。サバンナを生き残るために進化したのがわれわれの脳であるはずなのに、なぜ高度な数学の計算までできてしまうのか。明らかに不要で、過剰な能力だ。

だがピンカーと進化心理学はこれを否定して、知能はパンダの親指のようなもので、間に合わせで使っているものが、そのまま便利に利用されているのだという。人間に数学ができるのは、本来別の意図で備わった脳の機能が、たまたま数学の問題を解くのにも使えたという理屈なのだそうです。
なのでやっぱり知能、人間の推論する能力も適応によって身についたものなのだという。
しかしそれは、“生態学的合理性”と呼ばれ、あくまで人間が生存するうえで有利になるよう身についた、特殊化された思考である。確率の計算などでまごついてしまい、ギャンブルで破産するのはそのためである。

7章めでまとめられますが、人間の認知は、視覚システムを見ても明らかなように、あくまで地球という環境に適応した結果うまれたものにすぎず、特定の情報と相互作用するようにしかできていない。
意識がなぜ生まれるかとか、宇宙の始まりと終わりがどんなものであるとか、そういった問題を解くためには作られていないのだ。
認識の限界という問題は、スタニスワフ・レムの小説が詳しい。とてもおすすめ。

情動

『心の仕組み』は下巻の方がわかりやすくて、身近な内容が取り沙汰されるのでグッと面白くなる。読者的にも一番知りたいのは、この情動の章と次の人間関係についての章だと思われる。
本書以前の議論だと、「情動」というものが、衝動的で本能的なもの、人間が進化する以前の動物の名残として解釈され、対置されるものとして「知性」が存在した。
それはフロイトのイドと超自我、無意識の本能と抑圧するエゴが存在するといった、ロマン主義的世界観が暗黙の了解となったものだ。
しかし本書ではそうした説明をしりぞけ、動物的と呼ばれる「情動」の働きを、知性的な思考と対になったシステムとして提示して見せる。
ピンカーが情動をどういうふうに捉えているかというと、僕の感じだと経済的な感じがする。
大まかに要約すると、「互恵的利他行動」「しっぺ返し戦略」「裏切り者検知装置」としての表情「報復システム」としての怒りや悲しみ。この四つが核だと思われる。

おさらいになるが、心、情動をデザインしたのは、自然淘汰によるものだ。そして自然淘汰は生物が過酷な世界で生き残るための戦略を発達させるよう働きかける。
しかしそれは“種”の繁栄ではなく、その生物個体が、自らの遺伝子を最大化させるという目的のために働く。人で例えると、人類のために命を捧げるやつはそうそういないですが、自分の子供を守るためだったら、命を捧げることも感情として納得できますよね。

人間関係においても、遺伝子を共有する“家族”が基本となり、子供や兄弟の生存がそのまま自分の利益となるため、そのように情動が設計されている。
(夫婦は子供をめぐる利害で一致し、友人関係には恩と見返りの経済が働く)

生物が生き残るためには、当然協力しあって助け合った方が有利なのですが、遺伝子を最大化させるという目的があるために、グループのなかで自分一人が得をしようとする利己的な振る舞いが進化します。その方が個体にとっては繁殖の機会も増えて、生き残る確率が上がるので当然、進化に有利に働く。ですがここで、“しっぺ返し戦略”を持ったより巧妙な個体が現れます。こいつは、裏切り者をめざとく記憶し、一生忘れません。そうして利己的な個体を締め出してしまうのです。
人間はこうした互恵的利他行動と、それに伴って必然的に生まれる「しっぺ返し」を戦略として適応した。

そして「しっぺ返し」をする相手、つまり恩を仇でかえす裏切り者を見分けるサインとして、表情を基準にしたのではないかと言う仮説が提示される。
相手が本当に助けを必要としているのかどうか、もしこの情報が簡単に偽装できてしまうものだと、あっさり裏切り者に出し抜かれ、利他行動を逆手に取られてしまう。なので、そうした感情は偽装不可能な形でなければならない。そこで表情は、汗や血管の収縮、涙など、意識的にコントロールできない兆候と結び合わされることで、真実性を担保しているのだと言う。人はなぜ悲しいと涙が流れるのかの、面白い回答だと思います。

一方“怒り”は、「しっぺ返し」が本気であることを相手に示すための脅し、「報復システム」として機能する。裏切ったらキレるとわかっていれば、あえて騙そうという気もなくなります。
逆に“悲しみ”は、それを自分自身に適応した形になり、大切な人を亡くしたとき、なぜ追い討ちをかけるように悲しみがやってきてさらに弱体化しなくてはならないのかは、失ったら本気で悲しいと言う事実を人質に、利他行動を促すためであると言う。

ピンカーの心理学はこんなふうに人間の情動を“互恵ゲーム”に見立てた世界観といえるでしょうか。これはドーキンスの本が詳しい。

ここに書いたことは本書の内容の一部で、もっといろんな議論があるのですが、雑学とかも多く、当然書ききれないので、ここら辺までが限界。ギブ。
この本、だいぶ前に読み終わってたんだけど、感想を書くために、2回も読んだよ……。

原著は1997年に出版されたもので、もうだいぶ古い本ということになるのかもしれませんが、違和感とかは特になかった。一応『ホモ・デウス』とかにも参考文献としてまだ使われてるし。

価値観がひっくり変えるというような本ではなかったのですが(伊藤計劃とかテッド・チャンを先に読んでたからね…)うまく知識の隙間を埋めてくれたというか、「へえ!」という感想が多い読書ではあった。
この本には人間の認知にとって重要な、“言語”に関する章がないのですが、それについては前著である『言語を生み出す本能』で書いたから省かれているようです。興味ある人は、多分そちらもおすすめ。

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