この本が書かれたのは1930年のことで、今からすると94年も前の小説になるようです。
第一次世界大戦が終わって、ナチスが台頭し始める、間くらいの時代ですね。
小説のなかでも触れていますが、アメリカの勢いも目覚ましい時代だった。
小説の内容は驚嘆すべきもので、われわれのことである「第一期人類」から進化した「第十八期人類」までの20億年の未来史が描かれる。
ここまで壮大な話は、ステープルドン自身による『スターメイカー』以外にはないのでは?
『三体』にしても、一人類の話ということになるし。
しかし本書には『三体』のようなキャラクターは存在せず、歴史書のような体裁をとる。淡々と人類の行いを記述していくのだ。
だから、すごく思弁的なSFということになる。忍耐を必要とする読書になった。
手塚治虫『火の鳥 未来編』で不死になったマサトが、神となって新たな人類が誕生したり滅んだりする、あのくだりのみで一冊の小説を書いたようなもんです。
ステープルドン自身はSFには疎くて、本書を執筆したときに頭のなかにはなかったという。自分自身の哲学を表現するための形式として、小説を選んだというわけだ。
そして本書を、未来予測の書ではなく神話として読んでほしいと前書きしている。
それはつまり、「人類はこうなる」ではなく、「人類とは何か」を描こうとする壮大な試みとして読んでほしいということなのだ。
ぼくは三年前に復刊した『スターメイカー』のほうを先に読んでいたので、『最後にして〜』にはそれほど衝撃を受けなかった。
『スターメイカー』のほうが奇想の度合いが強くて、90年も昔なのに、今の時代の読者であるぼくを驚かせるような発想が次々と展開し、アーサー・C・クラークの小説で感じたような無常感さえ漂うラストが、この時点で存在していたことに驚きました。
でも読み終わってみれば、『最後にして〜』は『スターメイカー』の前日譚のようだ。
『スターメイカー』では、主人公の精神が宇宙を飛翔し、さまざまな知的生命体とコンタクトし交わり、宇宙の果て、時間の果てを探索するという物語になっていて、『最後にして〜』が終始、太陽系のなかの時の経過を追う、縦軸の話なのに対して、『スターメイカー』は太陽系を飛びだして、異星人たちに会いにゆくのだから、横軸に発展した小説と言えるでしょう。
『最後にして〜』か『スターメイカー』のどちらかを読むんだったら、『スターメイカー』のほうがおすすめかなぁ。
『最後にして〜』には、映画版も存在して2020年に音楽家のヨハン・ヨハンソンによって作られた。
ヨハンソンは『メッセージ』などの劇伴を手がけた人で、『最後にして〜』を遺作に惜しくも亡くなってしまった。
映画はスポメニックと呼ばれる旧ユーゴスラビアに存在する幾何学的なオブジェをイメージ映像として映しながら、ティルダ・スウィントンが、原作の文章をナレーションするというもの。
メインとなるのはやはりヨハンソンの音楽で、東京の小劇場で観ましたけど、スクリーンが爆音でぶるぶる震えるほどの音響のなか、原作の霊的で荘厳な雰囲気がしっかり音で表されていて、サントラも買っちゃったくらい、いいものでした。
読書中も、流して読んだりした。
パンフレットには原作の文章が一部だけ掲載されていて、ずっと読みたいと思っていたので、今年読むことができたのは、なんだかんだ、あのときの思いが達成されたようで嬉しい。
読書中に、メモをとりながら起こった出来事を整理してみたので、これから読む人がいたら活用してほしい。
多分直前に『百年の孤独』を読んだ影響で、池澤夏樹さんが作ったあの『百年の孤独読み解き支援キット』ふうのものを作ろうと思ったんでしょう。
ざっとこんな感じ。
ステープルドンの未来史は、生物的な進化だけじゃなく、霊的な進化というビジョンが平行するのが特徴。
霊的な進化は、のちにアーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』や『2001年宇宙の旅』といった作品に継承される。
初期の人類は、民族主義(国家主義)とグローバルな世界主義との間の対立に引き裂かれ、行くたびも争いを繰り返す。
平和への希求と、闘争本能の矛盾にも苦しめられ、人類はなかなか統一を取れない。
そしてついに、核エネルギーの暴発で、滅亡してしまう。
第二期人類からは、闘争本能を抜き去って平和な種が誕生するが、意思の欠如だったり、それはそれで問題を抱える。
第四期人類から、人工的な改造が始まり、テクノロジーでどんどん人類を改造していく。
しかし行き着く先は、太陽系の崩壊で、最後の人類は最初の人類にテレパシーで助けを求め、種の滅亡という最大のニヒリズムに打ち勝つために、気力を分けてもらおうとする。
あれだけ、試行錯誤して、人類を存続させてきたが、結局は太陽に飲み込まれて全てがなかったことになってしまうのだ。
ならば人類の存在は無意味だったのか。
科学が明らかにする生命の仕組みは、人間は遺伝子の乗り物で、自由意志は存在しないとか、量子論の不確定性、しょせん出来事は偶然に過ぎないんだよといったような、虚無的な結論ばっかり。でもそんなこと考えるまでもなく、人間も物質であるし、究極的には生きる意味や目的など存在しないものだ。
大事なのはステープルドン風にいうところの“神霊”の問題で、いかにして“生きている”というかけがないのない経験を味わうのかということだ。
テクノロジーの発展ばかりではなく、それを扱う人間の心性も両輪となって初めて、本当の進歩といえるのかもしれない。