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カブトムシの亡霊

小学X年生の夏休み。僕は父親の力を借りて、カブトムシを採集することにした。
朝方のほうが見つけやすいんだよ、という誰から聞いたか今では思い出せない情報を持って、僕と父はとにかく地元の山へ向かった。
夏の日の出は早く、僕はじゅうぶんに早起きしたつもりでいたけれど、外はすっかり夏の気配を醸し出していて、そこらじゅうからセミの鳴き声がしていた。

山についてすぐ、近くの木々を点検して回る。
僕が昆虫博士と呼ばれるくらいカブトムシの事を研究していれば、クヌギの木によく集まることだとか、そもそもクヌギがどんな木なのかを予め知識に入れておくのだろうけど、僕はそこまで頭がいい子どもではなかった。とりあえず山に行けば見つかるだろうと思っていた。
そんな無作法な子どもにカブトムシの神は微笑んでくれない。しばらく粘ってもみたけれど、結局僕と父は釣りで言うところの「ボウズ」で、帰宅した。

離島に住む叔父に父から「カブトムシば採ってくれんね」というお願いをすると、数日後ダンボールに10匹ほど入れられたものが空輸されて来た(うち2匹くらいは息絶えていたけれど)。
無造作に放り込まれたダンボールの中で蠢くカブトムシやクワガタを見て、僕は「おうふ」と若干の気持ち悪さを覚えたことをよく覚えている。

何に影響を受けたかわからないけれど、僕はカブトムシを好きになり、育てようとした。自由研究ではカブトムシの生態をまとめてみたりもした(だからヘラクレスオオカブトのかっこよさも知っている)。
でも、いざ送られて来、あっという間に「自分のもの」になった虫たちを見て、妙な違和感を感じたのだ。
叔父が採った大きい虫たち。自分の手を汚さずに手に入れた、手のひらの上で蠢く生命。そのありがたさ、愚かさ、尊さを理解するには子ども過ぎた夏の日々。

僕は手に入れてしまった満足感に浸るだけ浸って、そのまま多くの虫たちを世話できずに見送っていった。それ以降、カブトムシを飼いたいなどと言うことは無かった。

子供だからと許される事に甘んじて、僕はずいぶん狡く生きた。
何かを、駄々をこねる程欲しいと言い、そうやって手に入れればすぐに乱暴に扱った。友人から借りたゲームソフトも粗雑にしてしまい、怒られたこともあった。
僕は、そんな自分がいつからか大嫌いになった。

今では、自分でも驚くほど物持ちが良くなった。
使っている電子機器らが壊れれば修理し、ソフト的にもそうだが、ハード的なアップデートも自分で出来るような知識や経験を得た。

ものを大切にするということは、大切にする術を知るということなのだろう。

夏になり、蝉の声を聞き、瞼の裏に浮かぶダンボールに入れられたカブトムシ達を思い出すたびに、僕はそんな事を考える。

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