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彼女はつよく餅を踏む。

本日9月17日は、姪っ子さんの記念すべき一歳の誕生日であった。

一年前、予定日よりもずいぶん早く産まれた彼女を病院に赴き見に行くと、信じられないくらいの小さい命がそこにあった。指先には小さいながらもきちんと爪があったりと、人間をぎゅぎゅっと凝縮したようなサイズの生き物がいた。彼女はまだ良く見えていないだろう瞳を朧気に開けながら小さく小さく、呼吸をしていた。なんだかその姿は、存在を、総てを、世界に赦されているように見えた。

父は自身の初孫である彼女を溺愛した。
「買い物に行くから」としばらく出かけ、やけに帰りが遅いなぁと思っていたらこっそり姉の家に行って孫を愛でていたり、彼女のために作詞作曲した歌を聴かせたりしていた。
僕や姉が赤ちゃんの頃も相当に子煩悩で、アホみたいに愛でてたらしい。叱られることも多かったし、怒ったときは死ぬほど怖い人でもあったけど、アメとムチというのがものすごく上手だったのだろうなと思う。

もちろん僕や姉はそんな子煩悩…もとい孫煩悩な父を見た事がなかったから、ずいぶん驚いた。目に入れても痛くない、というのはああいうことを言うのだろうな。

自身の体を病気が蝕んでいき相当に辛かったであろう時期にも、孫にだけは笑顔を向けていた。すっかり細くなってしまった腕で小さい命を抱きしめて、子供が持つ"全力の生"のエネルギーを体に取り込んでいるようにしていた。

きっと、ずっと孫の成長を見ていたかっただろうなと思う。
歩き、喋り、泣き笑いしながら少しずつ成長していく姿を楽しみ、ゆっくりと自分も年老いていきたかったのだろうな、と。

そんな父がいない彼女の一歳の誕生日は、なんだかものすごく物足りない気がした。あるべきものがないような感覚があった。
いつでも心の中にいると思っているし、いつでも声が頭の中に響いているけど、それがやけに寂しくて切なかった。

彼女はこれかも健やかに、そして伸び伸びと育っていくだろう。
大人として、叔父として、たまには叱らなくてはならない場面があるかもしれないけれど、自分の中の父と相談しながら、かける言葉や態度を考えていけたらな、と思う。

そんな思いを知ってか知らずか、彼女は力強く紅白の餅を踏んだ(九州ならではの風習なのかな。どうなんだろう)。
一生食べることに困らないようにだとか、健やかに育ちますようにだとか、そういう意味合いがある行事だそうだ。

ほんとに。そうあってほしいなと思う。おじいちゃんのためにも、ね。

誕生日、おめでとう。

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