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いっせんおくえんの罰金ね

小学校の社会科かなんかの授業で「日本には一億数千万人という人が住んでいるんですよ」という事実を聞いて、初めて自分が住んでいる国の輪郭が見えたような気がした。
そこから、自分が住んでいる県には何人、市は何人…とズームアップしていき、自分を中心にした円の中の人間の数を(ただの数字的な認識でしかないにせよ)把握した。それはものすごく漠然とではあるけれど、世界の輪郭を掴んだ気にさせたのだ。

億、という単位は自分の身に近いものには使わない単位であったから、それがえらく楽しかった記憶もある。お金だって、当時放送されていた「炎のチャレンジャー」という番組の賞金として定番だった「ひゃくまんえん」がとても大金だと思っていたくらい。
でも「億」という単位が日本に住む人間の数、というとても近いところにあると知ってからは、お金の価値観は爆上がりだった。「◯◯出来なかったらいっせんおくえんの罰金ね〜」なんて言って笑っていたものである。恐ろしい。

そんな中、どこかの誰かが言った。
「日本人全員から一円貰えば一億円だぜ」と。
たしかにそうだ。一円くらいなら皆捨てるように差し出すだろうし、もしかしたら10円くらいくれるひともいるかも知れない。多めに貰えるということはそれだけ一億円が近くなる、ということだ。早く集められるということだ。
僕はそんな妄想に病みつきになった。別段お金に困っていたわけじゃないけど、お金をたくさん持ってるというのは、なんとも気分が良いはずだからだ。
あんなに遠くて、漠然としていた「億」という単位が、また一段と近くなった気がした。「億」を手にするのも時間の問題かもしれない、などと。

もちろんそんな妄想は妄想のまま朽ちていき、あっという間に大人になった。大人と呼ばれる年齢になった。

子供の頃から使っている勉強机の引き出しをたまに開けると、古い10円玉を見つけることが出来る。家の中を探せば、そんなお金がいくらか見つかるだろう。
たまに道路に落ちている一円玉もあるし、自動販売機の下の隙間に入っていってしまったまま誰にも気付かれずにいる500円玉もあることだろう。

そんな、ただただ無表情のまま暗闇に潜んでいる硬貨たちを集めたら、いくらくらいになるのだろう。そう、大人と呼ばれる年齢になった僕はたまに考える。「億」どころか「万」さえ掴むことが困難で喘いでいる日々の中で、ふいに、たまに。
あれだけ近くに感じた「億」はやっぱり遠くて、漠然としたままだ。掴んだと思った輪郭は、今はまたあやふやで曖昧なものになっている。

「数字」は時に人を安心させるし、不安にもさせる。気がつけば数字のためにあくせく動いてるだけの毎日になってしまいがちで、なにもかもが無駄で無意味な気がしてしまう。

それでも、一億数千万人いる日本人の中のひとりに産まれたその意味を持て余さないようにしながら暮らしている。せっかく産まれたのならと、こうやって文章を書いたりしている。

数字に踊らされる毎日だけど、そんなものを「ていっ」と蹴散らせるくらいの人にはなりたいな。

そのためにはまず、引き出しの中の10円玉を回収するところからかな。笑

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