Zanzou。

子供の頃、目を瞑るといつでも異次元を旅行出来た。
夜空に漂う美しいオーロラのような赤や黄色や白、極彩色の光の帯が四方八方から現れては消え、消えては現れて、僕を闇の奥の奥へと誘った。
ドラえもんが、のび太の机の引き出しに飛び込んでタイムマシンに乗ったときに見える時空の壁のようなものを彷彿とさせる、どこまで行っても終わりのない空虚とも言える暗闇と光。それは、何かを掴んでおかなければそこに落とされもう二度と浮上出来ない末恐ろしさを感じさせた。だから僕はしばしば、ぎゅっと自分の身体や服、布団のシーツなんかを握った。振り落とされないように。
まるで白昼夢のようだった。夢か現実か、どうもリアリティが無い。見えているのか見えていないのか。今自分に見えているものはまやかしではないか。
真偽は不明なまま歳ばかり無駄に重ねて、いつの間にか大人になり、いつの間にか異次元旅行は出来なくなっていった。目を瞑って見えるのはただただ静かな暗闇となった。

それは「残像」なのだという。

目を開けていた時に瞳が受けた光が残っていて、それが目を瞑った時に反転され、残像として"見える"。
あまんきみこ作の「ちいちゃんのかげおくり」という作品をご存知だろうか。戦争の悲しさを伝える話で、小学生の頃に夏休み期間中にある登校日に行われる戦争の授業でその作品を知った。
その物語の中で重要な要素となっている"かげおくり"とは、地面にある自分の影を長時間見つめたあとすぐに空を見ると、見つめていた影の残像が空に現れる、というものだ。主人公であるちいちゃんは、戦火に喘ぎ朦朧としながら最期にかげおくりをし、本当の意味で空へ飛び立つ…というラストがある。

この「残像」現象を使ったトリックアートもあるくらい、誰にでも出来る、または起こる現象で、何も珍しいことでは無い。かげおくりも、同級生らと実際にやって遊んだ。自分の影が青空の中に浮かんでいる姿は今思えば多少の不気味さがあるが、当時の僕らは嬉々として、自らの影を夏空へと何度も何度も飛翔させた。

僕は異次元を旅行していたわけではなかった。
誰にでも起こる現象を、自分だけに起こる特別なもののような気持ちで捉えていただけだった。なのに自分は何かに選ばれた人間なのではないかと妄想に耽ったりもした。
そんな光だけではない精神的な意味での残像が未だに僕の瞼の裏に浮かぶ時があって、密かに赤面する。

幾何学的に闇を彩る光の群れは、僕自身が見た過去だ。
過去は未来へと続く道を瞼という扉に閉ざされて、自由気ままに動き回る。

僕が最期に目を閉じるとき、そんな光が駆け巡ってくれたらいいな。
暗闇でなく綺麗な光の中に落ちていけるなら、もう僕はシーツをぎゅっと握らずに済む。


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