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【本居宣長の空想地図】最終回 本居宣長編

270年前、19歳の本居宣長が作った空想地図を解き明かすシリーズ。
このシリーズは『彰往テレスコープvol.2』(近日発売予定)企画展記事と連動した企画です。
※この記事は前回の続きです。前回の記事はこちら
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夢の終わり、夢のつづき

 19歳の時に書き始められた『端原氏城下絵図』『端原氏系図物語』ですが、その制作はいつのころか中断を迎えます。
栄貞がこれをいつ中断したのかは全くわかりません。『絵図』の中には寺の名前も敷地も決まっているのに書かずに終わっている場所があり(「霊徳寺」)、かなりプツンと打ち切ってしまったような印象があります。

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小津栄貞はこののち22歳のとき兄が死没し、家督を相続します。
しかし、商人になれない彼は、財産を整理して医師修行のために京都に遊学することとなります。
一般に本居宣長の伝記は、この京都遊学・堀景山への入門から論じられることが多いですね。現実の京に身を置くことになった彼にとって、架空の京の必要なくなったのかもしれません。

 では小津栄貞は消えてしまったのでしょうか。岡本勝さんのいうように端原世界を棄てることによって「夢多き青春との決別」をしたのでしょうか。

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 いやいや、そんなことはないでしょう。本居宣長の中に、栄貞の影をみることは不可能ではないはずです。
例えば、歌学は実践と研究の両方が重要なんだよ、という賀茂真淵の理屈をすんなり継承したのは、宣長がかねてより研究(『都考抜書』を想像)と実践(『端原城下絵図』を想像)を繰り返してきたからでしょう。

 そして見てもいないことを、好みの通り、さながら見たかのように、緻密に書く才能は生涯にわたって発揮されています。

ここで私たちは彼が死ぬ直前に書いた「遺言書」を思い起こしてみるのもいいでしょう。
ここで彼は、自身の遺体の取り扱いについて詳細に指示し、菩提寺までの行列の順序、じぶんの奥墓の設計図、末代までの忌日の行事などを定めています。
戒名「高岳院石上道啓居士」も、諡「秋津彦美豆櫻根大人」も本人が作っています(普通は両方他人が作る名前)。

私はこのあたりに『系図』や『絵図』の影をみずにはおれないのです。

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(『本居宣長全集』より)


 …と、ここまで小津栄貞が後の本居宣長であることを前提に考えてみましたが、改めて『端原氏城下絵図』を見てみましょう。
 やっぱり小津栄貞って変な人だと思いませんか? 膨大な量の書物を読み漁って得た知識をこんなことに使っちゃってるんですよ。もちろん地図を書くのだって相当な技術と知識が必要なはずです。
19年間で得たもの全てを使って作ったのが、まっっったく役に立たない変な物ですよ?
こんなことを家業をほったらかしてやってたわけですからね? 例えばあなたが19歳の時に、部屋にひきこもってこんなのを書いていたとしましょう。
何をやっとるんだキミは、と言われるのが当然でしょう。

小津栄貞ってそんな人です。
私は彼が本居宣長となることを知っていても、どうしてもこの人に「やっぱあなた変だよ」と言わないと気が済みません。

 しかし、この端原のおはなしも、私たちの人生において一切役に立たないという驚愕すべき当然の事実も一応お伝えしておきます。
他人の妄想に付き合った皆様、大変お疲れ様でした。お出口はあちらとなっております。


惟宗ユキ19歳 令和2年8月、之を書き始む。
品川の浜にて。


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「本居宣長の空想地図」、御付き合いくださりありがとうございました。
このnoteマガジンは、博物館をコンセプトとした歴史雑誌『彰往テレスコープMUSEUM vol.02 机上のユートピア』企画展示の解説記事として書かれたものです。

この企画展示は本居宣長の空想都市「端原」の1985年版の観光ガイドを創作し、その空想の地図に何が書いてあるのか、空想の都市の由来はどうなっているのかを研究・解説します。

このマガジンの内容のすべてと「1985年版タウンガイド端原」を収録し、さらに「端原市観光案内図」を付録につけ、さらに常設展示8編を収録しています。

3/15日よりbaseにて発売。現在予約受付中です。


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