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手を差し伸べるご夫婦をみて

おはようございます。事業承継コンサルタントのMASAKIです。近所を散歩される高齢のご夫婦をみて感じた事を書きます。

お互いに支えあいながら

近所の高齢のご夫婦は暑さが控えめな朝と夕方にお二人で散歩されます。小柄なお二人はどちらからという訳でなく、寄り添いながらゆっくりと短い距離を歩かれています。
見ていても暖かさを感じますが、ひとつひとつの行動があまりにも自然すぎます。私が、外出で車を出すタイミングでも歩かれていても、通り過ぎるまでお二人で支え合いながら待たれることもあり、こちらが恐縮してしまいます。その光景をみて感じた事

見返りなんて求めてない

何かをするときについ見返りを求めがちです。いやいや、私はそんなことないよと言われますが、意識した地点で欲は出てるのです。

  • ゴミを拾ったら良いことあるかなぁ

  • 未来の為に今からボランティアをしよう

  • あの人困っているから助けたらお礼をいわれるかな?

  • 運を引き寄せたいから掃除をしよう

実はこれって私欲だと最近になって気がついた、いや?腹落ちしました。人間なんで論理的に考えますが、見返りを意識した地点で個人的な私欲になっていると思います。
もちろん、やらないよりはやった方がいい訳ですので見ているだけで何もしないよりはいいことだとは思います。やるやらないを言いたい訳ではなく…

未発の中

儒学では「中」の状態であることが、理想であり、善であり、目指すべきところだとされます。逆に。「中でない状態」が悪であり、是正すべき状態だとされます。

分かりやすく言えば 「すぎるなよ」という事です。
ここで言う「過ぎる」とは結果を予測して「得だろう」「メリットある」と言う意図のもと行動する事を指します。逆に「過ぎない」とは物足らないこと。

そのどっちにもならずにあることが「中」であるとされています。まあ、自然な状態ともいうのでしょうか?
でも、その自然な状態が「過」の状態であるとすると、それはどうなのか?
そもそも「自然な状態」にしろ「過」にしろ、それは何と比較してその状態なのか?いろいろ考えられるわけです。じゃあ、修行していけば仙人にでもなれるのか?というのも危険な思考かと「感じます」「及ばない状態(足りない)」とされる仙人や善人はなれない。

さっきまでの状態も「自然な」状態と言われたらそれでいいわけです。

何がいいたいか?
さっきのご夫婦をみて何か見返りを求めて行動しておらず、ごく自然にお互いが支えあっていること。つまり、咄嗟的に出る行動が自然な状態かもしれません。これは脳の構造に由来します。(あれ?なんか趣旨変わってきた?)

人間の脳は三層構造

  • 脳幹:爬虫類脳。生命を維持する本能 

  • 大脳辺縁系:哺乳類脳。衝動的に感じる感情

  • 大脳:人間脳。論理的思考等

そして人間に起こる衝動は、爬虫類から受け継がれた反射脳によるものだとされています(「三つの脳の進化」ポール・マクリーン著)。

まあこんな風になります。ざっくりとですが普段私たちは大脳で生きています。今回言いたいのは脳幹の部分です。つまり、行動の元になる感情を感じる前に動き出すこと。ここが重要だということです。生命を維持するのと同じく、自らの意思で止めることができない機能。そこに由来する行動がとれているか?

ビジネスの世界では難しいかもしれませんが相手の望むことばかり考えてやりすぎると自分が「未発の中」でなくなるかもしれないよってことです。特に発達した大脳で論理的思考とか言われ、私も普段そのように行動していますが、そればかりで行くと自分の都合の様に考えるようになります。

冒頭のご夫婦をお見掛けして「咄嗟」の行動が「損得」抜きの状態でできる自分でありたいと思ったわけです。何かを期待してやることも必要かもしれませんが、それを実行する「素」の自分がどんなものであるのか?それに由来すると考えています。

最後まで読んでいただきありがとうございました。



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