見出し画像

直島ひとり旅


いつぶりだろう、こんなに海を近くに感じたのは。
ここは瀬戸内海に浮かぶ直島。芸術の島としても有名な香川県の島である(岡山県からのほうが距離は近い)。
レンタル自転車でぐるぐる島内を散策してみたが、たしかに当時を偲ばせる古い町並みと、現代アートが見事に調和していた。ちょっと自転車で移動してみるだけで、飽きさせることなく瀬戸内海の様々な風景をみせてくれるのも素晴らしい。

海を一人でぼーっと眺めていると、これまで仕事とかで悩んだり不安だったりしたことがすーっと消えていく気がした。やっぱ自然は最高だなー!夏最高!

「夏最高!」と思いながら撮った写真


そう思ったのも束の間、茹だるような暑さで、ある程度外にいると喉もカラカラになってきてほんとに死にそうになった。エアコンの効いた立派な建築物に入ればなんとかなるだろうということで、予め位置を把握していた美術館エリアに直行し、そこですげぇ人たちが創ったすげぇモノを色々観ることができた(美術館までは少し歩いたりするけど館内は1時間もしないくらいで回り終えることができる)。
一人できていると、いろいろ思うことがあっても感想を言い合う相手がいないので、あとでネットで言葉を発してやろうと内心に留めて美術館を出た。
ふう。

李禹煥美術館の出入口


僕は芸術に素養があるわけではないので、美術館に入っても理解できないかなと思ったけど、真新しいモノをみると多少は心動いた。このような施設をつくってくれた人たち最高!

李禹煥「無限門」


この「無限門」みたいな作品を眺めていると、僕の身体は海みたいな自然の一部分にすぎないと思える一方で、ずっと自然とともに暮らせるかといったらそんなことはないとも思える。人が創った新しいモノをみて、色々考えを巡らせてみたい。安心で快適に暮らしてもいたい。
だから、いくら死んだら自然に還るとはいえ、将来的に頭で考えたり言葉を喋れなくなってぼーっと死んでいく日がくるのはとても怖いとも思う。

あぁ、また来週に控えている不安なことを一つ思い出した。

島小屋BOOK CAFE&TENT STAY のランチ


昼ご飯には、カフェで冷えたフォーとくそでかいプリンとクリームソーダのセットを注文した。
自転車で立ち寄ったそのカフェは、築120年の古民家を改修してできたそうで、独特な雰囲気が醸し出されていた。直島では「家プロジェクト」という古い家を作品化する取り組みがあるらしい。
セットの組み合わせは夏にぴったりで最高!大満足!


悩みや不安に対して、うだうだ言ってるだけの自分は、わがままだなとも思う。結局自分は何もしていないくせに。

世の中には、エアコンについて理知的に設計した人がいるから快適でいられるし、文章でも絵画でも建築でもあれやこれやと工夫した人がいるからその作品はすごみが増す。お腹が空いたらすぐにご飯にありつけるのも、他の誰かが暑い中それを供給してくれているからだ。
それらを僕はただありがたく享受しているだけのくせに、悩みや不安から解放されたまるで王様や貴族かのごとき自由な生活を、送っていいはずがない。
今すぐ動き始めないといけない。

草間彌生「赤かぼちゃ」


ただ、日頃の生活で悩みや不安に押しつぶされそうだとして、それに鈍感になって黙々と頑張るしかないかというと、そうでもない気がする。

日頃から身体の変化を鋭敏に察知して、場合によっては「逃げる」ことができるからだ。
例えば、自然の中でぼーっとしているとして、気持ち悪い虫が現れた場合には、すっと身を引くことが誰しもできる。いま良い気分だったのにーとか、悩みごとしてたのにーとかは関係ない。ただ変な虫だ!という直感にしたがって逃げることができる。(そういえば今日も歩いていたら変な虫に遭遇した。)
天候に関していえば、紫外線が強いと思ったら日焼け止めを塗ってダメージを減らしたり、豪雨がくるなと予感したら建物の中に避難するくらいのことはできる。天気予報を見なくても分かる。
それは職場の中でも同じはずだ。せわしなく作業していたとしても、機械の調子がおかしいなと思ったら手を止めて点検するし、イライラしてそうな人に出会ったら殴られないようになだめながらその場を離れる。
ネット上でもそうだ。Twitterで嫌だなやつだなと思ったらミュートするし、場合によってはブロックする。

要するに、自分の生命力を減殺してくるようなものと距離を置くことはできるし、すでに無意識的にできていることもたくさんあるということだ。
自分の生命力を削いでいくもの、それは虫かもしれないし、さっきふと口にしたものかもしれないし、今日TikTokで見たショート動画かもしれない。
それはよく分からない。でもそのモノについての自分のセンスを研ぎ澄ませることはできる。
だから、必ずしも悩みや不安を感じること自体は悪いことではない。悪いのはそれに鈍麻しきって反応しなくなった身体だ。

最後に入った地中美術館 写真ほぼNG


地中美術館の予約時間がきたので、最後に地中美術館にむかった。直島の景観を損なわないように建物が地中に埋め込まれている変わった美術館だ。建築家の安藤忠雄が設計していて、地下なのに自然光が入ってくるようにつくられていた。その光に包まれながらクロード・モネの作品が飾られたりしていて幻想的だった。


こんな感じで、直島にある主な美術館である、李禹煥美術館、ベネッセミュージアム、地中美術館を、滞りなく自転車で回ることができた。
途中ランチを食べたり、最後に銭湯に入ったりしたけど、すべて合計しても8時間くらいで回ることができた。
平日だからかもしれないが、直島には海外からの観光客が多かった。体感外国人が7割くらい。施設の案内人も流暢に英語を喋っていた。

帰りの自転車を漕ぎながら海辺を眺めると子供たちが鬼ごっこをしてキャーキャー言いながら遊んでいた。暑いのに元気だなあ。子供たちは夏休みか。鬼ごっこって海外にもあるんだなー。とそんなことを思いながら宮ノ浦港へ向かった。

思えば小さい頃、逃げるという行為は生き生きしていて楽しいものだった。大人になったら忘れてしまうだけで本当はきっと楽しい。
ひょっとすると人間は、子供の頃から鬼ごっこのような遊びを通じて、逃げる技術を習得しようとしていたのかもしれない。逃げるという行為が自らを生き生きとさせ、胸を踊らせる楽しい行為だということを身体に刷り込んでいたのかもしれない。

少し話がそれたが、直島に作品を残した李禹煥(り・うふぁん)にせよ、安藤忠雄にせよ、子供のような遊びが上手いなと思う。子供というと失礼かもしれないが、芸術に素養がないから許してほしい。
李禹煥はモノ派と呼ばれて、よく作品に「石」を使うらしい。石って面白いww

李禹煥 作品名不明
石がおもしろくて撮った


李禹煥と浅田彰の対談動画がYouTubeに上がっていたので、帰りのフェリーで見てみたけど、李禹煥は韓国の人なのに日本語がとても上手だった。作品の背景や思想を高度な日本語で語っていた。
そこで李禹煥が「石をいくら技術的に分析できた
としても結局は分からない。(•••)鉄板と石のようにモノとモノを組み合わせてみることで産業社会と自然の対話ができるのではないかと思った。」みたいなことを言っていた。なんだか難しいことを言っている。
でもたしかにモノとモノを突き合わせてみようという、芸術家たちの遊び心は作品に垣間見えた。そしてそこで生まれた空間、もっというと自分自身の反応の変化を感じとって、さらに試行錯誤を繰り返しているような気がした。そこで試してみるモノとは「自分」であってもいいのだろう。

自分というモノと得体の知れないモノを配置してみたときに、空間を通じて自分にどんな反応が起こるのか。
そこで生じてくるのは不安や悩みかもしれない。

その不安や悩みはないほうがいいわけではない。むしろ、不安や悩みを感知した時に、それに対して当然のように起こるべき身体反応、普段の生活では鈍ってしまいそうな、その生きるための身体反応こそ重要なのだろう。

自然にせよ芸術にせよ、そのような身体反応を呼び起こしてくれるところに魅力があるのかもしれない。


忘れかけていた身体の動きを、自然と芸術に溢れる直島で少しだけ回復できたような気がする。

自宅に着いた。明日は仕事がある。



おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?