「窓を開けてほしい」

昔、「同じ部屋にいる人が「暑い」と言った場合、それは、単純に暑いと思ったから暑いと言っただけかもしれないし、「窓を開けてほしい」という意味を込めて暑いと言ったのかもしれないし……」みたいな文章を読んでびっくりした。

「窓を開けてほしい」とは言っていないのに、「窓を開けてほしい」と思っているかもしれないと想像することなんてある?

そんな想像をすることは、相手に対して失礼じゃない??

と思った。

窓を開けてほしいと思っているのに、直接「窓を開けてほしい」とは言わずに別の言葉で遠回しにそれを伝えて暗に人を動かそうとするのは、浅ましく、卑しいあり方だ、
「「暑い」と言っていたけどそれは「窓を開けてほしい」という意味かもしれない」と想像するのは、相手がそのような浅ましく卑しいあり方をしているかもしれないと想像することだ、
そんな想像をすることは相手に失礼だ、
そう、思っていた。

けど、最近、分からなくなった。

思っているのとは別の言葉を使って人を動かそうとするのが、浅ましく卑しいあり方とは、必ずしも言えないのかもしれない、とか、もし浅ましく卑しいとしても、単に「それは浅ましく卑しい」だけでは話は終わらない、と思うようになった。

思っているのとは別の言葉を使って人を動かそうとするような、それまでの人生がその人にはあって、その人生は、もちろん、かけがえのない、その人のただ一つの人生だからだ。

その人生をただ愛することができるのではないか、と思うのだ。

浅ましかろうと、卑しかろうと、そんなの関係なく、あるいはそれらを全部ひっくるめて、愛することが。

「この人は「暑い」と言ったけれどそれは「窓を開けてほしい」という意味かもしれない」と想像することは、失礼なことではなく、愛のひとつになりうるのかもしれない。

などと、最近思う。



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