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生きる人

妻は、食べ物をよくこぼす。
こうすればこぼしにくいよ、と僕には言えない。

こうすればこぼしにくいよ、と言えば、
こぼさないようにしろ、こぼさないためにこうしろ、を醸し出してしまう。

ある行為をすることは、
その行為のために労力を割くことだ。

もし、生きるために自らの力の100%を使って毎日の行為をしているとすれば、ある新しい行為をするためには、これまでしてきた行為に割いてきた労力の一部を削り、代わりに新しい行為へそれを充てることとなる。

しかし、生きるために自らの力の100%を使って毎日の行為をしているとすれば、そこにおけるそれぞれの行為は生きるために必要な行為であり、よって、それを削ることは生のバランスを崩すこと、即ち生命維持の危険を冒すことである。

だから、軽々しく、こうすればこぼしにくいよ、とは言えない。


この前、妻が「自立してるし」と言った。
あ、そうだわ、そうなんだわ、と思った。

妻は、いろいろなことができない、あるいは、するのが難しい。
仕事に行くこと。
入浴すること。
歯を磨くこと。
洗濯をすること。
料理をすること。
暇な時間を過ごすこと。
電車に乗ること。
1人で過ごすこと。

妻は自立している。

今、妻に「この前「自立してる」って言ってたけど、舞佳にとっての自立ってなに?」と訊いた。
妻は「えー(笑)、生きてること」と言った。


生命を維持することは、少なくとも妻にとって、常に闘いである。
死にたい、との闘いである。
死にたい、に妻は常に打ち克ってきた。

妻は1人で死にたいと闘う。
生きるのは妻だからだ。
そして、同じことだが、死ぬのは妻だからだ。

妻は1人だ。
だから、妻は自立している、と言える。

他方、死ぬことは、妻にとって、1人で立つことをやめて、ゆるむこと、だと思う。
それはやはり、救いだろう。

逆に言えば、ゆるむことは死ぬことであり、だから妻は、ゆるむことができないでいる。


妻は今、僕の目の前でスマホをいじっている。 
妻は今、生きている。
それを僕は見ている。

僕は妻よりも長生きする。
そう、妻と約束している。

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