ジャレコ側からみた「コナミの商標登録問題」のあとしまつ
この記事は以下の記事の続編・補足版です。まずはこちらの記事を先にお読みください。
先の記事で私は「コナミがパクリ製品であるジャレコのVJを訴えた」と記述しました。結果的に裁判は和解で終わり、コナミとジャレコは痛み分けの結果となったわけですが、では本当にVJがBeatmaniaのパクリだったのか? という疑問に関しては答えはでないままでした。
それに対してジャレコ側の開発者が答えているインタビューの存在を教えて頂いたので、さっそく買ってみました。GAMEgene Vol.1です。
この中でプロデューサーである市崎裕康氏がVJの開発経緯や、裁判結果について語っています。
詳細は実際に買って読んでみて頂きたいのですが、VJはジャレコと複数のメーカーさんと組んで売れる音楽ゲームをつくって、自分たちの持っているゲームセンターに置こうという流れがあったそうです(その複数のうちの一つはナムコでしょう)。
開発期間は3ヶ月。しかもVJが最初からあの形であったわけではなく、様々な草案を考え、没になり、最終的に「後ろのギャラリーにもプレイを見せつける」という要素を押し出したVJが製品としてリリースされた……という経過だったとのことです。あまりに開発期間がなかったので、基板は既存のものを流用。映像制御にパソコンをそのまま筐体内に組み込んで対処しました。ディスプレイの電源がつくとパソコンの起動画面が映ってしまうので、本体の電源をいれたあとディスプレイの電源が映るのは数十秒後と時間差をつけました(本体とディスプレイに時間差をつけて電源をつけるアイデアは、面白いことにコナミも後に採用しているものです)。
VJは決してBeatmaniaのカウンターではなく、試行錯誤の上で生まれたものだ、という主張です(ただし市崎氏はぐるっと一周した結果、似たようなものになっちゃいましたけどね、と笑つきで述べています)。
補足しますと、当時の音ゲーブームは1997年末の初代Beatmania登場後、即超熱狂というわけではありません。
1998年3月のBeatmania 2ndMIX登場後、じわじわ上り調子になり、Dance Dance Revolutionという第二弾がBeatmania 3rdMIXと一緒に9月に投下されてブームが加速。1998年末頃からTVでもガンガン特集が組まれるようになって、1999年初頭には熱狂的音ゲーブームと言った具合でした。
VJが登場したのは1999年春頃でした(詳細は不明ですが、4月稼働のBeatmania 4thMIXの前です)。製造の都合を加味するととても開発期間3ヶ月だけではすまないので、実際は登場の半年前ほどから取りかかったとみるべきでしょう。そうすると実際の企画はDance Dance Revolutionが登場した前後あたりから始まったのではないでしょうか。
そうなると音ゲーブームが真っ盛りの頃に「便乗して似たようなの作ったろうぜwww」的観点から生まれたもの、というよりは、確かに「なんか音ゲーが人気になるっぽいし、俺たちもいっちょやってみるか!」的な姿勢のほうがしっくりくるような気がします。結果的に似たようなものが生まれたのはなんともですが。
そして本インタビューではコナミの裁判についても触れられています。以下引用します。
このほかにも市崎氏は「僕としては他社のものをパクった覚えはありません」と断言していたり、「ジャレコなりのオリジナリティを追求した音ゲー」へのこだわりを見せています。
また、VJはシリーズ三作目RAVE MASTERにおいて、譜面操作がなくなり、映像操作に特化したものに変えられていました。これについてコナミとの裁判の結果故かという認識がユーザー間に生じていましたが、市崎氏は否定しています。
このインタビューでわかるのは、ジャレコなりのオリジナリティを追求した結果、VJやステッピングステージ、ロックントレッド、ドリームオーディションが誕生したということと、コナミとの裁判はあまり開発側視点から見たら影響を及ぼしていないということです(ドリームオーディションが登場したのはコナミと裁判真っ最中の2000年3月です)。
私は先の記事でコナミの名誉回復を図れたと思っています。しかしこのインタビューを読んだ後で、ジャレコ側の名誉回復もなされて良い頃ではないか、と思うようになりました。
そのため補足としてこの記事を書き上げました。当記事のインタビューには他にもいろんな話が盛り込まれているので、興味のある方は是非読んでみてくださいね。