真・初心会興亡記 第三幕 -栄光の落日-

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スーパーファミコン中期の市場は混乱していた。サードパーティーが初心会外の問屋に売ることは常態化していた。それ自体はよい。しかし一部ケースで末端の販売店の売価が、メーカーから購入するよりも安い場合が存在しはじめた。中間に入った問屋が損切りで大量の在庫を捌いた結果だった。それを初心会流通が購入し、別ルートの他の店に売ることもあった。ありえないことが起こり始めていた。


そう、ありえないことが起こり始めていたのだった。初心会流通が小売から特価で買い上げる逆流現象が起きる一方で、小売店が小売価格そのままでソフトを仕入れる状況も発生したのである。

例えば「ドラゴンクエスト5」が発売されたとき、町のゲーム屋は必死に予約分の注文を問屋に行う。初心会に直接取引をやっているゲーム屋はそう多くなく、二次問屋をいくつか得意先として契約しているところがほとんどだ。Aの問屋で10本確保した。Bの問屋で5本確保した。しかし予約は20本、あと5本なんとかして融通してもらわないと……。

店長が再度問い合わせても既存の問屋からは割り当て量が増えない。当然だ。Aの問屋もBの問屋も他の販売店に回す分でかつかつだからだ。初心会から回ってくる量を、なんとかやりくりせねばならない。出せば必ずうれる商材なのだから引く手あまただった。

そんな状況でじりじりと発売日が近づいてくる。このままでは一部の客に対して「発売日なのに予約分のドラクエをご用意できませんでした」と謝るはめになる。そんなことになれば客は二度と、うちを利用しなくなるだろう。そんなタイミングで一本の電話がくる。「ドラクエ5ありますけど、買いませんか?」というものだ。卸価格は、小売価格そのまま。

腹に背は代えられない。しかたなくその問屋から小売価格そのままでドラクエ5を購入する。そしてそのまま小売価格そのままの値引きなしで客に売る。客は「ぼったくりやがって」と思いつつも、発売日に買えたドラクエ5を喜んで持って帰る。一息ついた店長は請求書を見てため息をつく。例の問屋から回されてきた請求書には送料1000円が記載されているからだ。


初心会やその配下の二次問屋に絡んだ、まっとうではない問屋はこうした「商機」を見逃さなかった。少しでも利益を出そうとあの手この手で小売店を翻弄した。短い歴史で大きくなりすぎたゲーム市場は、このような輩が蔓延る百鬼夜行の世界だった。「おたくが作って、やくざが売る」……。とあるサードパーティーの営業マンは、自嘲しながらこの世界を表現した。そうしたやくざな問屋と、初心会(ここはもしかしたら初心会の一部なのかもしれないが)が結びつき、上がる利益に狂乱していった。売れるソフトと売れないソフトの見極め、そして適正在庫の見極め。任天堂から初心会に要求されていたことを、すっかり初心会は忘れていた。いかに利益をあげるか。彼らの至上命題はそれであった。


そしていよいよ限界が訪れた。スーパーファミコン市場が次第に縮小しはじめたのである。1994年、発売から4年目のスーパーファミコンは円熟期を迎えた。そして対抗として、プレイステーションやセガサターンが登場した。このときの業界に衝撃が走った。プレイステーションはソニー自身がソフトメーカーからソフトを買取、直接小売店に売る直販スタイルを取っていた。問屋はいらない。CD-ROMを採用しているのでリピートに三ヶ月もかからない。廃棄するコストもたいしてかからない。だから問屋はいらない。このスマートな流通を小売店は喜んだ。


そしてセガサターンもCD-ROMを採用していたが、こちらには別の衝撃が走った。流通会社としてセガ・ユナイテッドという組織を問屋としてまとめあげた。そのセガ・ユナイテッドの中核は初心会幹部の松葉屋だったのだ。

松葉屋にはもくろみがあった。スーパーファミコン市場に限界が訪れているのは薄々気がついていた。任天堂の次世代機、ウルトラ64(ニンテンドウ64)に期待はしていたが、発売日がずるずると延びていた。任天堂一本に肩入れしきっているわけではないが、リスクの分散は必要と判断した。それ故、販路を広げようとセガの誘いに乗ったのだ。

この話の顛末はわかりやすい。セガ陣営に移った松葉屋は即、山内社長の怒りを買い、初心会除名勧告を受け、一切の任天堂商材の入荷が禁止された。そのあまりの怒りっぷりに対して松葉屋専務が直に山内社長に頭を下げ、セガ・ユナイテッドからの離脱を宣言することで許しを得ている。任天堂からしたら「ウチのところの商材で飽き足らず、他のところに手を伸ばした、まではいい。そのままライバルメーカーの広告塔になるとは何事か」といったところだろう。このとき、初心会との対比でセガ・ユナイテッドを持ち上げるマスコミが多かったからだ。その広告塔が松葉屋であったため、山内社長の怒りはすさまじいものだった。(参考


初心会の支配力に緩みが生じていた。市場は縮小化し、強力なライバルが生まれ出た。この頃になるとCSGは対初心会組織として成長していた。プレイステーションやセガサターンソフトを売り込む場合、必要なのは初心会流通ではなかったからだ。小売へのアプローチの場が改めて必要だった。そのためのCSGショウは毎年開催され、盛況だった。1995年3月に行われた第16回CSGショウでは、104種がスーパーファミコンタイトルであったが、セガサターンタイトルが20種、プレイステーションタイトルが19種だった。じわじわと着実に、次世代機と共に反初心会連合が育っていった。

そんな現実に背を向けるかのごとく、初心会は利益確保のために動いていた。


スーパーファミコン市場末期、1995年発売の「聖剣伝説3」は初回出荷は70万本だったが、実は初心会からの注文本数は合計140万本だった。前作がミリオン超えをしていたのでそれだけ期待があった、というのが表向きの理由だが、要するにこれも投機的に扱われることが明白だった(そもそも前作「聖剣伝説2」も結構な数がワゴン行きしていた)。あまりに酷い値崩れを嫌ったスクウェアは出荷本数を半分の70万本にし、かつ卸値を10%引き上げると初心会にアナウンスした。こうした動きに、初心会の一部が小売店に対して「スクウェアを公正取引委員会に訴える!」と言いまわってしまった。もちろんスクウェア側には一切の非はない。運が悪いことに(それとも狙ったか)スクウェアは夏休みに入ってしまったので、小売店は真相を確認することができず業界の一大事が起きたのではないかとパニックになったところもあるという。この話は巡り巡ってなぜか「任天堂が悪い」ということになってしまった。PSが発売されて半年以上経とうとする頃でも、初心会に改善の予兆はなかった。

そして初心会はいよいよ「売れるソフトがどれくらい売れるかという見極め」もできなくなっていく。

1995年の年末、「ドラゴンクエストⅥ」の発売にあたっては、初心会とエニックスの間で注文数の予測で大紛糾だった。初心会の予測は250万本。エニックスの予測は300万本。エニックスは自信満々だったが、初心会はそこまで売れないと踏んでいた。初期出荷は250万できまり、エニックスは自前で50万の在庫を抱えることになったが、エニックスのこの読みは的中する。即リピート発注がかかり、エニックスは二次出荷を行った。最終出荷本数は320万本だった。初心会の予測はどんどん外れていった。


そのような事態に、任天堂は色々と改善策を打って出してはいた。1993年頃から、初心会の展示会で目に付いた有望そうなサードパーティーのソフトに対して制作費を負担したり、マリオクラブで一定得点以上獲得したソフトはサードパーティーの年間発売制限にカウントしなかったり、面白いゲームソフトの製造委託費をそもそも値下げしたりした。しかし肝心の流通部分において、核心までメスを伸ばそうとはしていなかった。任天堂と初心会の関係は、一朝一夕のものではなかったからだ。そこを切り捨てるには、あまりに恩も情もありすぎた。


このとき任天堂はバーチャルボーイというずっこけハードを出している。出してはいるが、在庫はすべて初心会に引き取って貰っているため、任天堂としては傷は最小限で済んだ。

自信をもって出した商材が、初心会を苦しめている。こうしたもちつもたれつの関係は、山内社長に恩と義理を重ねていた。

その義理は改革を中途半端なものに仕上げた。



1996年1月、一度初心会は解散され「新・初心会」に再編された。トランプやかるたをメインに扱う問屋に外れてもらい、新たにテレビゲーム専用の卸集団として機能するようにした。そして任天堂は何度も初心会相手にこう言った。

「右から左に流せばいいという安易な考えではだめだ。本当に必要としているところに商品が行き渡らないなどという事態を招いている。流通がこれぞという商品に目をかけ、育てていく意識をもつことも必要だ。そうでなければ流通の存在意義はなくなる」

かつてスクウェアを育て上げた初心会は、その光の面を捨て、今やただの投機集団に堕ちていた。

そして任天堂は改革を推し進める。初心会メンバーに対して、すべての販売先を事前に届け出るようにしたのだった。さらに発売間近のニンテンドウ64に対してはハードやソフトにすべて個別のシリアルナンバーをつけ、どこに、どの商品が、どれだけ流れたかを正確に把握しようとしたのである。


こうした改革の波は、しかし無駄に終わった。1996年、コンビニ流通が産声をあげる。デジキューブの誕生である。デジキューブはスクウェアが主導し、コナミ、ハドソンらの出資で動いたコンビニ販売ルートである。スクウェアだけではない他メーカーが問屋を通さず自前で卸すという。問屋もいらなければ、ゲーム屋すらいらない。衝撃はあまりに大きかった。

デジキューブの狙いは、コンビニのPOSシステムを使ったスマートな流通管理だった。どこに在庫がどれだけあるかリアルタイムで把握し、在庫がなくなればスムースに補充をかける。当時のデジキューブ社長(兼スクウェア副社長)だった鈴木尚は参考としてNOA(Nintendo Of America。任天堂の北米支社)が採用しているNIMS(Nintendo Inventory Management System)を挙げている。このシステムはNOAのコンピュータと各地のコンピュータとがオンラインで繋がっており、各小売店に設定された適正在庫水準を管理している。在庫がそれを下回ると、自動的にNOAのコンピュータに注文が届く。注文を受けたNOAのコンピュータはロボットを動かし、自動的に棚から商品を取り出し、自動的に品物を送る。このロボット倉庫の実現で6週間かかっていた配達が、2日に短縮されたという。ちなみにこのロボット倉庫に投資した額は6000万ドル。倉庫の大きさは33500平方メートル、約1万坪である。

つまり任天堂は、北米ではデジキューブが参考にするほどの最先端の流通機構を有しているのに、日本においては旧態依然とした問屋商売を続けていたことになる。それは初心会に対する配慮以外の何物でもなかった。

しかしその配慮にたいして、初心会は甘えていた。甘えきっていた。1996年、流通するスーパーファミコン用ソフトをやはり抱き合わせで売り、「荷溜め」をし、投機的に扱ったのだ。ニンテンドウ64は上記のシリアルコードで管理されきっているし、そもそも本数が少ない。ならばスーパーファミコンで、というのが初心会の頭にあったのだろう。最後の最後まで、彼らは儲けるのを忘れなかった。次第に配下の二次問屋、三次問屋は倒産、廃業していった。


こうした初心会に、ついに公然と立ち向かった企業がいた。コナミである。コナミは初心会流通から脱却を宣言し、自主流通開始を宣言した。もともとコナミはプレイステーションに参入するとき、すでに自社流通を要求していたが、SCEの要望で折れ、SCEに委託することで決着している。しかし一年半後、SCEの手を離れた流通であるデジキューブの出現に対して怒鳴りこみ(なぜ後発のスクウェアには自社流通を認めているのか、という怒りである)、自らもデジキューブに出資し、以降は自前で流通を行うと啖呵を切った。

このときのコナミ社長上月景正氏はインタビューにてこう答えている。

「コナミが自主流通すると言うことで世間は騒いでいるが、コナミとしてはこれは当然のことだと考えている。自分のところの商品を自分のところで売っていくのは当たり前だ。今のゲーム流通は本来のゲームの流通を逸脱している」

これはプレイステーション有するSCEへの牽制もあるが、同時に初心会に向けて「別にあなた達に頼らなくとも自分たちで行けますよ」という最後通牒であった。コナミには直接販売に耐えられる体力と、それを支える営業力がすでに備わっていたのである。

詳しく解説すると、そもそもコナミはアーケードゲームも作っている。アーケードゲームを自社で作り、それを各地のゲームセンターに販売している。もちろん販売しただけでは終わらず、アフターサービスも必要になる。そのための販売拠点を、コナミは各地に作っていた。この時点で営業所は100、販売会社は13を有している。これをそのまま家庭用ゲームソフト販売に利用しようというのだった。これは規模的にいうと当時のSCEの営業所を上回っていた。1996年3月時点で契約した法人は300、店舗数は3000店。初心会が2万5000店舗、SCEの特約店が5000店と、比較するとまだ小規模ではあったが、その営業力を使い、じきにSCE特約店と並ぶことは目に見えていた。この時、SCEの5000店でおよそゲーム購買層の9割はカバーできていたという。コンビニという新しい販路を切り開いたデジキューブとは違い、コナミの自社流通は既存のゲーム屋からも問屋の影響力を削ぐことに成功した。取り扱えないプレイステーションだけではなく、少なくなってきたスーパーファミコンの商材がさらに減らされることになった。


脱初心会を掲げたコナミに、他のサードパーティーは続いた。今まで小さな火を灯し続けていたCSGが、ついに燃えさかる大炎となった。コンピュータエンターテインメントソフトウェア協会(CESA)を新しく設立し、サードパーティらの相互交流団体へと進化したのだ。会長はコナミの上月景正社長であり、副会長はカプコンの辻本憲三社長に、エニックスの福嶋康博社長、スクウェアの小林宏取締役だった。そしてこのCESAは対初心会組織として機能する。

CESAはサードパーティーをかき集め、その力を集結させた。今やゲーム流通は初心会だけのものではない。我々は初心会の横暴を許さない。その意思が形となった。1996年夏、CESAは東京ゲームショウを開催する。出展した企業数は87社。来場者数は10万人越え。これは世界でもトップクラスの来場者数だった。

明確な対抗馬の出現に、初心会はどうしたか。

何も、できなかった。

「頑張って『売れるソフト』と『売れないソフト』を見極めろ」

「右から左に流せばいいという安易な考えではだめだ。本当に必要としているところに商品が行き渡らないなどという事態を招いている。流通がこれぞという商品に目をかけ、育てていく意識をもつことも必要だ。そうでなければ流通の存在意義はなくなる」

任天堂は初心会に対して繰り返して要求していた。しかしこの期に及んでも、初心会は自らをどのようにしていけば良いのか、全くわかっていなかった。コナミが先陣を切り、CESAが巻き上げた炎は大帝国であったはずの初心会を包み込み、一気にそれを崩壊させていった。すぐ目の前に火の手があがっていても、彼らはただ慌てふためいているだけであった。


初心会は何も変わっていなかった。ゲームソフトのことを知らず、おもちゃ問屋の一組織でしかなかった初心会は、その中身を時代とともに変えることも出来ず、歪んだまま大きくなった。自己改革ができず、ただ任天堂に助けを求めるだけだった。



任天堂の恩と義理が、ついに尽きた。


1997年2月21日。任天堂本社で毎年のように行われる初心会の懇親会。その幹部会の席上にて初心会会長である河田会長が宣言した。

「本日を持って、初心会を解散します」

水を打ったかのような静けさが幹部たちを襲った。幹部たちには事前には知らされていなかったからだ。解散は任天堂山内社長と、初心会河田会長のトップ会談で秘密裏に行われた。初心会の幹部らは自分たちが任天堂から見限られたことを悟った。しかし異議や意見はでなかった。皆、どこかでいずれこのような時がくると感じていたからだった。

改革の波が初心会に参加していた問屋たち、51社を襲った。彼らに約束されていた任天堂の一律掛け率はなくなった。全ての商材は個別に、各会社別に行われるようになった。ニンテンドウ64でも任天堂商材の影響力は強かったし、この時期はゲームボーイでポケモンが人気を過熱させていた頃だった。しかしこの改革で旧初心会問屋は自由を奪われた。投機的にゲームソフトを扱うことが不可能になった。さらに64の少数精鋭主義が影響力の現象に拍車をかけた。問屋と小売の力関係が大きく変わった。


任天堂自身が、取引する問屋を大きく絞り込んだ。51社のうち、メインに取引する会社を10社とした。他の問屋は二次問屋に落とされたが、じきにそのほとんどが姿を消していった。そもそもこの時代、問屋といった中間業者を省いてコストダウンを図る「中抜き」が各業種で進んでいた。メーカーが小売に直売することが良しとされた。メーカーは十分にそれができる体力がついているのだから。任天堂と取引を続けた10社は直接小売に卸した。二次問屋、三次問屋の居場所はなくなっていた。


餅は餅屋。

しかし餅屋がまともに餅をつくらないなら、米を卸している農家としたら自前で餅をつきはじめるのが筋だ。任天堂は自前で売上げ予測を始め、リスク管理をはじめた。また、このときコンビニのローソンと提携し、ニンテンドウパワーという書き換えサービスを問屋無関係に行いだした。遠慮する理由が何一つなかった。かつてディスクシステムに注力するのを止めた配慮は、もう過去の話になっていた。


こうしてかつてゲーム流通の世界において大帝国を築き挙げた初心会は、任天堂山内社長の手によって終止符を打たれたのである。あまりにもあっけなさすぎる最後だった。


しかし初心会の歴史は終わっても、ゲームの歴史は止まらない。この後、旧初心会10社と任天堂は、紆余曲折ある歴史を刻む。石川玩具はタカラへ事業譲渡した。モリガングはバンダイ系列のハピネットに買収された。服部玩具もその後トイズユニオンと名を変えたが、タカラトミーに組み込まれ、そのあとハピネットに買収され、合併され名を消した。松葉屋はラスコムに事業譲渡したが、そのラスコムも後年自己破産している。そんな一方テンヨー、カワダ、カマヤは今でも元気に問屋業を営んでいる。


初心会解散から20年近く経った2016年、任天堂は初心会解散と同等の流通大改革を実行した。

任天堂の最大手であるジェスネットの株の70%を取得し、子会社化した。そしてジェスネットは、任天堂商材関連の二番手であったアジオカのゲーム事業部の譲渡を受けた。この二社で任天堂商品の国内流通の6割を占めていた。任天堂は完全自前の自主流通を始め、いきなり国内の6割を行うようになった。

子会社化されたジェスネットは改名され、「任天堂販売株式会社」となった。この改革はダウンロード販売に比重が傾きつつある現状況下において、パッケージ流通にメスを入れるために必要な措置と思われる。旧初心会系の問屋の歴史は、ここで二度目の終止符を打たれたことになる。


これが初心会のたどってきた歴史だ。彼らは任天堂のファミコンによって成り上がり、任天堂の手によって最後を迎えた。

彼らの手によって成長を加速させたゲームメーカーは多いはずだ。ハドソンやスクウェアは自身の能力と、初心会の協力によって大きくなっていった。しかしそれらを誇るには、あまりにもそれ以降の傍若無人な態度による影が強すぎた。それ故に最後は悪役として君臨し、討たれたことで話が完結してしまった。


しかし彼らが討たれたとしてもゲーム業界は時計の針を止めず、歴史を紡ぎ続けている。だからこそ、彼らの所業は黒く塗りつぶされたままシミとなって過去へと追いやられてしまった。

彼らの悪行も、わずかな善行も、そのシミの下に隠されたままであった。たった30年前の出来事がわからなくなっている。


おかしな話である。誰も具体的な所業を知らないままに評価だけはまるで神話のように定まっている。ただ「悪行三昧だった」という評価だけが塗り固められ、その詳細を語ることが出来ない。


評価には詳細なデータが必要なはずだ。上塗りしたシミだけを見ての評価に意味はあるだろうか。


本記事によってそのシミが拭い去られることを願う。


悪徳の町ソドムとゴモラは神の怒りに触れ、一夜にして滅び神話となった。初心会も神の怒りに触れ滅びたため、神話となったのかもしれない。


参考文献:以下のリスト全て

SpecialThanks! 参考ツイッターアカウントの皆様

岩崎啓眞@スマホゲーム屋+α @snapwith
平林久和/H.Hirabayashi @HisakazuH
大森田不可止 @omorita
くぼゃん @wadelyjp



あとがき

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