歴史に名を刻め セガ サターン流通改革の裏事情 -後編-


セガ・ユナイテッド発表後、松葉屋は慌てに慌てていた。1994年の年末商戦の目玉である任天堂ソフト、スーパードンキーコングの入荷がなくなったからである。入荷未定ならばまだいい。任天堂から言われた数字は「ゼロ」だった。一本も入荷する目処が立たなかったのだ。
松葉屋は計算違いをしていた。確かに任天堂はソニーとパナソニックを敵と表面上は(あくまで表面上は)みなしていなかった。
しかしセガは違っていた。セガは幾度となく拳を交わした強敵だ。その上アメリカ市場ではジェネシス(メガドライブ)がSNES(スーパーファミコン)を抑えて市場シェアを獲得していた。侮る要素は何もなく、名実共に全力で戦わざるを得ないライバルだった。
そんなライバルにゲーム機の優先権をちらつかせられたくらいで、ほいほいと尻尾を振ってついていった松葉屋を任天堂が許容するわけがなかった。年末商戦のキラーソフトを一本たりとて売る理由はない。京都風に言うと「気張ってセガさんところのゲーム機売りなはれ」である。セガとの固い握手の下で、サーベルタイガーの尾を踏んでいたことに今更ながら松葉屋は気がついた。

松葉屋は絶体絶命のピンチに追い込まれた。いくらセガサターンの優先権を持っているとはいえ、現時点の主力製品は任天堂製品なのだ。任天堂から買えないとなれば他初心会問屋から購入するほかないが、それは松葉屋が二次問屋に落とされることを意味する。それならまだマシかもしれない。任天堂が他初心会問屋に「絶対に松葉屋に売るな」と号令すれば松葉屋は二次問屋から買うしかなくなる。その場合松葉屋は三次問屋になるし、そうなれば今まで取引をしていた他の会社は松葉屋を見放す。他の初心会問屋から買ったほうが遥かに条件がマシだからだ。

松葉屋はセガ・ユナイテッドに出資することを撤回するしかなかった。

セガ・ユナイテッドが座礁した翌日、その船長は船から逃げ出したのである。

1994年11月、晴海東京国際貿易センター東館にて、第六回初心会ソフト展示会が行われた。ソフトの実演と展示がつつがなく終わり、終演を知らせる蛍の光が会場内に流れ始めた頃、任天堂山内社長のもとへ駆け寄る人影があった。松葉屋の専務である。彼は何度も何度も頭を下げ、人目を憚らず謝り、許しを乞うた。セガ・ユナイテッドから撤退することを伝え、自らの行いを悔いたのである。
冷たく厳しい表情を続けていた山内社長は目の前で松葉屋専務が頭を下げるのをじっと見つめていた。そしてしばしの後、松葉屋専務に対してようやくリアクションをとった。硬かった表情を綻ばせ、優しく背中に手を回し声をかけたのである。
「よう帰ってきてくれた」 
背中をとんとんと叩き、山内社長は松葉屋の謝罪を受け入れた。その後も頭を下げ続ける松葉屋専務と、柔らかな表情を浮かべる山内社長の二人を見たものは、「感動的ですらあった」と感想を漏らした。

任天堂と松葉屋は和解を成立させた。ギリギリのところで松葉屋は数十万本のスーパードンキーコングを手に入れることができたのである。

ところで何故任天堂山内社長は松葉屋を許したのだろうか。人前でも構わず頭を下げる謝罪に情が移ったからだろうか。
決して違う。勝負師山内は対セガ戦略に松葉屋を組み込むことにしたのだ。先に仕掛けてきたのは(任天堂視点としては)セガの方である。手加減はいらなかった。

まずは松葉屋に遠慮なくソフトを卸した。裏切ったペナルティはなかった。スーパードンキーコングを始め、翌年マリオのスーパーピクロス、ヨッシーアイランド、スーパードンキーコング2といったミリオンソフトをどんどん流した。これら売れ筋のソフトは松葉屋を経由してセガ・ユナイテッド内の問屋に大量に入り込んだ。元は松葉屋ルートで構成された流通網なのだから当然である。つまりセガ・ユナイテッド流通内でスーパーファミコンソフトが駆け巡ることになったのである。
任天堂から見て「正気に戻った」松葉屋は他にも積極的にサードパーティのソフトも取り扱う。かまいたちの夜、スーパー桃太郎電鉄Ⅲ、ロックマンX2といった1994年末の有力ソフトをガンガン仕入れ、セガ・ユナイテッドに流した。これらのソフトはとにかく売れた。小売店も欲しがった。

その結果、セガ・ユナイテッドは今まで通りの初心会の二次問屋としての機能が強くなってしまったのである。中にはセガサターン本体を売る際スーパーファミコンと抱き合わせで(サターンのソフトではなく!)売る問屋もいた。あろうことかセガ・ユナイテッド内でのセガの地位が低下する現象が起きたのである。問屋は売れる商材にこそ飛びつく。初心会や任天堂が横暴だろうとしても、売れる商材を流してくれる大本に逆らえるはずがなかった。そして現時点でのセガは、そこまで売れる商材を提供し続けることができなかった。

セガの不幸はこれだけで済まなかった。プレイステーションの存在である。
今まで謎のベールに包まれていた超新星プレイステーション。家電業界の雄、ソニーが繰り出すそのゲーム機は、恐ろしく先進的で洗練された流通を有していた。
問屋の存在はなく、小売への直接販売。リピートはセガよりも早く一週間で次ロットのCD-ROMが到着する。小売価格からの値引きはなく、中古の取り扱いは厳禁。かわりに小売価格は6000円未満。小売店へはSMEで活用されていたジャレードがルートを定め配送する。この洗練さはセガのはるか先を進んでいた。座礁し、船長不在となった大型船セガ・ユナイテッド号の横を最新鋭のプレイステーション号が悠々と通りすぎていった。セガ・ユナイテッドは登場まもなく時代遅れの烙印を押されたのだ。

その上プレイステーションのソフトはよく売れた。正規取扱店にのみ発売することができたが、この正規取扱店はプレイステーション発売当初はまだそこまで数が多くなかった。SCE側の思惑として「いきなり店ばかり増やしても市場の流通在庫が過度に増えてしまう可能性がある」ということである。取り扱い店舗数拡大をするにしても、あまりに早すぎるペースでやるのもよくない、ということだ。セガ・ユナイテッド系問屋が目をつけたのはここだった。

手口としては、こうだ。
セガ・ユナイテッドと取引があるプレイステーション正規取扱フランチャイズに声をかけ、そこからPS用ソフトを買い取ることにした。75掛けで仕入れたPS用ソフトは80掛けほどでセガ・ユナイテッド系問屋に渡る。それをセガ・ユナイテッド系問屋は85掛けで他のSCE未契約店に売りさばく。5%程度の利幅でしかないが、これが飛ぶようにうれた。正規取扱店が少ないため、欲しくても仕入れられない店も多かった。85掛けで仕入れても小売価格そのままで売れれば15%の利幅だ(当初、PS用ソフトは値引き販売が禁止されていた)。そうした需要にセガ・ユナイテッドは応えた。サターン用ソフトそっちのけでPS用ソフトを流すことでセガ・ユナイテッド系問屋は利益をあげた。

なお、この話には後日談がある。SCE側に対して正規取扱店は一月の売上げ金額のおよそ20%の金額を保証金として預けることになっていた。月1000万円の売上げなら、保証金は200万円だ。これは取引解約時に返却される。まあよくある話でおかしなことはない。
ところがセガ・ユナイテッドにPS用ソフトを横流ししていたフランチャイズは500万円の保証金を預けていたものの、そのおよそ50倍の売上げが毎月あがっていた。横流しをしているのだから当たり前である。
いくらなんでもおかしい、このままで大丈夫だろうか。そう考えたSCEは保証金の増額をする他なかった。そのフランチャイズには改めて5000万円の保証金増額を提示した。

さあ困った。いきなり5000万円の保証金を用立てなければならない。フランチャイズは早速PS用ソフトを横流ししていたセガ・ユナイテッド系問屋に連絡を取った。返ってきた言葉はこうだった。

「ちょっとくらい条件悪くなってもうちは取引続けますから、今までどおりどんどん流して下さい」

つまり保証金の話はそちらでどうにかしてくれというものだ。このままでは保証金が用意できず、PS用ソフトが手に入らなくなる。フランチャイズはピンチに陥った。
しかしそこで手を上げた男気溢れる企業がいた。我らが盟友ムーミンである。5000万円をどんと預け、それを保証金としてあてがってくれと言ったのだった。フランチャイズは無事、SCEとの取引を続けることができるようになった。

さて、いったいどんな思惑でムーミンは金を出したのだろうか? 単純明快、「保証金を出すかわりに、セガ製品はうちを通してください」という契約だ。そのフランチャイズは今までどおりPS用ソフトをセガ・ユナイテッド系問屋に流し続けたが、セガサターンを購入するときは既存の問屋ではなくムーミンを通すようになった。なんてことはない。セガ・ユナイテッド内で同士討ち、競合が起こり始めたのである。問屋が複数並んでいる(しかも規模もそれなりに大きい)のだから、小売側では「どの問屋が最も安く仕入れさせてくれるか」は重要なファクターとなる。ある程度の規模のフランチャイズであれば複数の問屋と取引があるのは当然だ。こうして足並みが崩れたセガ・ユナイテッド系問屋は己の利益を最優先にし、セガ製品への取扱をさらに軽くしていった。スーパーファミコンやPS用ソフトのほうが儲かるからだ。

もう一つ、セガ・ユナイテッド内の流通事情を見てみよう。サターン用ソフトはビクターのCD-ROM工場でプレスされる。他社の工場であるためソニーグループ内の工場で作るプレイステーションよりも時間はかかる。セガは二週間でリピートができると主張していたが、実際は1ヶ月程度時間がかかってしまっていたらしい。時間がかかるということは、発売直後の機を逃したソフトはそのまま欠品が続き、売り損なう可能性が飛躍的に高まることを意味する。発売から三週間後のソフトは新作と見なされず、売上げは低迷する。スーパーファミコンのROM事情とさほどかわらない現実が未だセガサターンを覆っていた。セガ・ユナイテッド系問屋は売り損なう機会損失を危惧し、ソフトを過分に抱える傾向が出てきた。もし不良在庫になったら捨て値で売るか、スーパーファミコンの人気ソフトと抱き合わせで売りさばけばいい。96年時点、サターンとプレイステーションの年間ソフト合計販売数は、まだスーパーファミコン年間ソフト販売数に及んでいなかった。いなかったが、サターンはこうした問屋事情もあり値崩れがひどかった。プレイステーション側は小売店の統制と出荷量の調整が上手くいき値引き販売禁止のまま続いていた。小売店からして見れば、次第にサターンのうまみは減っていったのだった。

問屋の足並みの乱れと、小売店への影響力の減少。セガが窮地に陥るのにさほど時間はかからなかった。
流通改革が必要だったのは任天堂も同じだったが、この頃あろうことか任天堂はポケモンを大ヒットさせていた。1996年から1998年、三年間連続日本市場ゲームソフト年間売上げNo1を取った正真正銘の化け物ソフトである。初心会を解散させたとはいえ旧来の問屋流通を使っていてもここまでの大ヒットを飛ばせば影響力は絶大だ。小売店は旧初心会系列問屋の横暴に泣きながら(バーチャルボーイの野郎め!)それでもポケモンを売りさばき利益を得た。ポケモンと、スクウェアとエニックスを獲得して乗りに乗ってるプレイステーションの前にセガは存在をアピールしきれなくなっていった。


結果、セガは敗北した。ソフトシェアにおいて任天堂にもSCEにもおよばない業界三位に落ちたのである。


そんなセガではあるが、末端のユーザーに対しては優位点があった。それは値崩れのおかげで安価にソフトが手に入る状況であったということだ。その上セガは生真面目にゲームを作っていた。一定水準以上のゲームはそれぞれに信者を生み出した。それが安価で広がったゆえ、信者層が裾野を広げたことになる。販売台数で負けたといえど、次なる挑戦への土台はできあがっていたのだ。

そう、次なる挑戦への土台はできているのだ。

逃げることは許されなかった。敗北とは、戦いに挑んだものだけが得られる称号である。セガの歴史に敗北が刻まれるのは恥ではない。しかし、逃亡したと書かれるのは耐えられなかった。

セガは敗因を分析した。巨人任天堂、そして超新星SCE。彼らに勝たせたままでいられるわけがなかった。今度こそ、勝利がセガの歴史に刻まれるべきなのだ。

計画は動き出す。コードネームはKATANA。後にドリームキャストとして名付けられるハードが生まれようとしていた。
そしてさらなる流通改革。「セガ・ミューズ」プロジェクト。セガは諦めてはいなかった。たとえ弓折れ矢尽きたとしても、彼らは再び立ち上がり、立ち向かう。

待っていろ、任天堂よ、SCEよ。

セガ、最大の戦いがこれから始まろうとしていた。


参考文献
佐藤秀樹  元社長が語る! セガ家庭用ゲーム機開発秘史

矢田真理  ゲーム立国の未来像

滝田誠一郎 ゲーム大国ニッポン 神々の興亡

大下 英治  ゲーム戦争

国友隆一  セガvs任天堂 新市場で勝つのはどっちだ!?

武田亨   売られた喧嘩、買ってます。任天堂勝利の青写真

山名一郎  ゲーム業界三国志

山下敦史  プレイステーション 大ヒットの真実

赤川良二  証言。『革命』はこうして始まった


参考ツイッターアカウント

岩崎啓眞@スマホゲーム屋+α    @snapwith

ori+            @oritasu

あとがき 


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